ちきゅうレポート
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第2話 「地震の大きさ」は重要ではない?!2012年04月20日

ちきゅうレポート<番外編>第1話に引き続き、本航海の共同首席研究者、京都大学のモリ・ジェームズ・ジロウ教授に船上でお話を伺いました。


-ところで、ジムさんは、いまおいくつですか?

えーとね、55歳です。来週4月22日で56歳だよ。(一同:あらら、船上で誕生日、Happy Birthdayをやらなきゃだね。)生まれはアメリカのシカゴの近くの町です。ワタシはね、(見た目は日本人ですけど)両親もアメリカ生まれの日系三世です。ワタシのおじいさんが、100年前にアメリカに渡りました。




-おじいさんの出身は?

初日の航海日報を読んだ?「ちきゅう」は千葉の勝浦沖を回航してきたって報告したんだけど、その勝浦出身です。おじいさんについては、子供のころからいろんなエピソードを聞きましたね。たとえば渡米した時、勝浦から横浜まで歩いて行って、そのまま単身で船に乗ったらしい、とか。1890年のことです(注:明治23年)。その当時にアメリカに渡るのは、ある意味冒険だったと思うよ。




-ジムさんは、やっぱり、子供のころから地学が好きだった?

いや、大学まではずっと物理を勉強していました。大学3年生の時に、夏にコロンビア大学ラモント・ドハティ地球物理研究所というところにインターンシップに行ってね。そこが本当におもしろかった。研究者が世界中を飛び回っていてね。これはイイと思ったよ(笑)




「アラスカの火山にも、ヘリコプターで地震観測に出かけたよ」(右がジムさん)
写真提供:James Mori



それで大学を卒業したら、そのままコロンビア大学の大学院に進み、そこで初めて地震学を学び始めました。何がイイって、地球科学は、何が起きているのかを自分の目で見ることができるってこと。物理は本当に何も見えないからね。ワタシにはそこが面白かったです。

NOAA(米国大気海洋庁)のヘリコプターに乗り込んで、アラスカの火山にも観測に出かけました。エマージョンスーツを着てね。あと必ず猟銃を持ってね、グリズリーが出てくるから。でも天気が悪い時はヘリコプターが高い山まで行けないので、釣りばっかりしてた(笑)。そう、キングサーモン。とにかく、地震の観測のために、人が全く行かないようなフィールドに行けることが分かって、研究にのめりこみました。


「地震」と「人間」との関係

-ところで、これまでどんなところで観測を行ってきたのですか?

大学院を卒業して、最初の就職はパプアニューギニア国立のラバウル火山観測所でした。実は、1983年からこの地域の地震が増えてきて、そのうち大きな噴火が起きると予想されていました。そこで、パプアニューギニアの研究所は、地震学者をずっと探していました。というのも、実は前任者が観測中に噴火に巻き込まれて亡くなってしまったので。

でも、なかなか後任者が見つからなくてね。誰も行きたがらなかったから。そこで、ワタシが行くと言ったときに、みんなビックリしてね。どうして決して生活環境も良いとは言えず、しかもあんな危険なところに行くのかと。



ラバウルの街のマーケットでいつも野菜とかを買っていたよ
写真提供:James Mori



-それでも、なぜ行こうと思ったの?

んー、実は特に理由はないんです(笑)。もちろん心配はあったけど、行ってみようかと。実はあの時は結婚したばかりでね。新婚で最初に奥さんと一緒に暮らしたのがパプアニューギニアでした。あそこで3年間暮らしたんだけど、噴火や地殻変動が多かったですね。国立の研究所だったので、パプアニューギニア全国を観測していたんだけど、3年間に4つの火山が噴火して、マグニチュード7の地震も3回も起きました。




噴火前のパプアニューギニア・ラバウルの街並み。
いまは大噴火により街はすべて消えてしまいました 写真提供:James Mori



火山は、地震が起きる場所や周期、回数などの変化を丁寧に観測していけば、どのくらいで噴火しそうか、ある程度の予想はつきました。結局、94年にラバウル火山が大噴火して、ワタシが暮らしたきれいな街も全部なくなってしまいました。


-その後、カリフォルニアのアメリカ地質調査所(USGS)に移ったんだよね?

そう。そこで私の仕事内容も全く変わりました。パプアニューギニアは、地震が多いが比較的に人口が少なかった。一方で、同じように地震が多いが、カリフォルニアの大都市には何千万人という人が暮らしている。そういう、たくさん人が住んでいる中で地震というものを考えていかなければならない。同じ地震の研究でも、人との関係性が全く違っていました。




92年に南カリフォルニアで発生したランダース地震。
大きな断層が走っているのが見えるが、砂漠のど真ん中で発生したため、
被害が少なかった。その2年後にノースリッジ地震が発生。
写真提供:James Mori



パプアニューギニアでも、地震や火山を研究し、噴火しそうだとわかると警報を出すんだけど、人口が比較的少ないから街ごと避難することができました。暖かい気候だから家も木や草でできていたからね、地震で崩れたとしても、それほど危なくなかった。大噴火の時は、数万人が街ごと事前に避難しました。平常時に避難計画を立てたり訓練をしたり、よくやっていましたよ。それがすごく活かされたと思います。

一方のカリフォルニアは、全く違う環境でね。高層ビルは建っているし、人口もものすごく多い。このカリフォルニアの新しい職場では、メディアを通じて世の中にどんな地震であったかを伝える役割もありました。日本の気象庁のように、発生した地震がどんな地震だったとか、こんな災害に気を付けて、とかをアメリカの市民に向けて発表していました。

94年に起きたカリフォルニアのノースリッジ地震の時、ワタシは地質調査所でこの地域を担当する責任者でした。実は、このノースリッジ地震は、地震の規模(マグニチュード6~7)に比べて被害が甚大だったという点で、神戸の地震とすごく似ていたと思っています。(ちなみに、偶然にもどちらも1月17日に起きました)

あの時に、各国からカリフォルニアの地震被害を視察しにやって来てね。日本からもやって来てワタシが被災状況を案内しましたが、崩れ落ちたハイウェイを見て、あんなことは日本では起きない、日本はしっかりと作っているから絶対に落ちないよ、と言われたことを覚えています。でも実際には、その1年後に神戸で同じことが起きてしまいました。

この時に、日本でも、アメリカでも、研究の方向がすごく変わったと思います。地震という自然現象をただ研究するだけではなく、観測のネットワークを作るとか、想定マップを作成するとか。日本では緊急地震速報の整備も始まり、研究者が持っていた情報を積極的に発表するようになってきました。


-緊急地震速報に関心があると聞きましたが?

そうだね。カリフォルニアの地震も、神戸の地震も、どんな規模の地震であったのかがすぐに正確に分からず、発生後に少し混乱もありました。これが残念だったとワタシは思っています。地震の大きさが基準となって緊急時の対応も違っていましたからね。初動がね、大事だから。

以前に、大地に見渡す限りに断層が走り、何mも隆起したような地震を調査したのですが、そこは砂漠のど真ん中だったので、あまり被害がなかった。地震があったことすら、なんだかみんな他人事のようだったね。こういう経験ですごく感じたことは、「地震の大きさ」が重要ではなく、「人に関わる地震」が重要であるってことです。

あとはね。余談だけど、フィリピンのピナツボ火山が大噴火した時にも調査に行っていてね。実は、危ないところだった。火砕流に巻き込まれそうになって。あと数百mのところまで火砕流が来てね。ほんと、あの時は危なかったよ。そのあとの地面は数か月間も熱かったね。

私は、地震や火山などを通じて地球の動きを研究してきました。災害に直結するような変動がなぜ起きたのかを研究者として調べ、リーズナブルな理解をし、それをみなさんに説明しなければならないと考えています。



本航海の共同首席研究者のモリ教授は、じつは若い時から冒険の連続だったのですね。「ちきゅう」に乗り込もうという気持ちも奥底を感じることができました。では、なぜいまモリ教授たち研究チームは「ちきゅう」に乗り込み、ここ日本海溝までやってきたのでしょうか。そのインタビューは、ナショナル・ジオグラフィック誌オンライン版「Webナショジオ」でただいま連載中の「深海7000メートル!東日本大震災の震源断層掘削をミタ!」でもご紹介しています。


(番外編は、まだまだつづく?)

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第1話 「いってきます」2012年04月17日

本レポートの本編は、ナショナル・ジオグラフィック誌オンライン版「Webナショジオ」でただいま連載中です。「深海7000メートル!東日本大震災の震源断層掘削をミタ!『ちきゅう』つぶやき編集長の現場レポート」


わたしはいま、仙台市から東へ250kmの場所の太平洋の上です。見わたす限りの水平線が広がっていて、もちろん陸地なんか、な~んにも見えません。ポツーン、と大海原にいます。

4月1日に清水港を出港した地球深部探査船「ちきゅう」は、一路、日本海溝を目指して航海してきました。毎回、出航というイベントでは、これから旅立つ人も、見送る人も、なんとなく感傷的な気持ちになるものです。

これからしばらくの間、家族や友人、恋人と離れ、しかも厳しいと分かっている仕事に向かうという心境は、文字通りに期待と不安が入り混じった複雑なものです。




4月1日に雄大な富士に見送られながら旅立ちました
写真提供:JAMSTEC/IODP



特に船長から指示があるわけでもないのに、出航の時間が近づくと、何となく各自がデッキに顔をだし、陸で見送ってくれる仲間や、わざわざ港まで見送りに来てくれたのに名前も存じ上げないみなさんに「ありがとう!いってくるよっ!」と、見えなくなるまで一生懸命に手をふりました(撮影中だったので心の中だけですけど。)わたしの隣にいたエンジニアの山崎クンとも、がんばろうなー、とお互いを励まし合うような妙な連帯感が、この瞬間からジワリジワリと湧き出してきます。




見送る人に「ちきゅう」のヘリデッキから手を振る科学者たち
写真提供:JAMSTEC/IODP



さて、いまわたしたちは、日本海溝という海底から、はるか7000m上方に浮かんでいます。「海溝」というのは、地球を覆っているプレートと呼ばれる分厚い岩盤が、ゆっくりと、でも着実に地球の奥底まで沈み込んでいく入口です。今では地球のあちこちに海溝があるのが分かっています。日本の西側ではフィリピン海プレートというヤツが動いているし、ここ日本海溝でも、太平洋プレートというヤツが年に約10cmの速さで動いています。そう、地球は動いています。


7000m↓の世界

さて、出航から2日後の4月3日朝8時に「ちきゅう」は調査海域に到着しました。ここには、海以外に何もありません。街も学校もありません。いま、わたしの足もとの青黒い海には、ただただ、その底まで7000mもの水があります。

深さ7000mの水。これはもう、圧倒的な量です。私は仕事柄、「ちきゅう」は大きい船だよ~、と小学校で授業をしたりするのですが、もう本船の小さいこと小さいこと。公園の池を見たアリのような気持ちです。なんだか暗く深い海の底に吸い込まれそうな気持ちにもなってきます。地球は水の惑星だということが、文字としてではなく、五感を通じて頭に刻まれます。




圧倒的な量の水をたたえる惑星に生きているんだと実感中
写真提供:JAMSTEC/IODP



その日本海溝の海底というのは、どんな世界なのでしょうか。実は、いま7000mまで潜航できる探査機は世界にほとんどありません。(JAMSTECの「かいこう7000Ⅱ」がそのひとつ。)ということは逆に、そんな世界のことなど、ほとんどわかっていないんだと言った方が正しいのだろうと、わたしは思っています。

海って言われると、海水浴、サーフィン、海の家、花火、あー青春、とか、わたしがイメージできるのは、これまで自分が見て触れたことのある情景がほとんどだということに気づきます。自分が知っていることだけで全てを理解したつもりになること。海に限らず思い当たる節もあり、反省するばかりです。

さて、そんな超深海の世界は、ものすごい圧力の世界です。宇宙空間とは逆に、深海には巨大な力がかかっています。たとえば、これから「ちきゅう」が掘削しようとしている海底では、みなさんの人差し指の先っぽ、その先に体重700kgの小人がニッコリと仁王立ちしているという計算になります。

もう一つ、実はすごく「遠い」ということです。7000mというのは7kmです(当たり前)。通勤距離が7kmだとすると、まあまあ楽な方だよね~、と言えるかもしれませんが、これを立ててみるとどうでしょうか。自分の家から7km↓。もうそこは未知の世界です。7km↑はなんとなく想像ができます、もっと高く飛行機は飛んでいますし。でも7km↓は見えません。暗いです。狭いです(たぶん)。

そんな↓の世界まで、太さ20cmばかりのドリルで調べようというのです。あー、あまりにも無謀、あまりにも弱小、と思いますよね。出航時のわたしの心細さを少し共感できたでしょうか。


さてようやく主役登場ですが・・・

今回の研究ミッションは、世界最強と呼ばれている(ような気もする)科学探査船「ちきゅう」にとって、実はひっじょーにチャレンジングな航海です。どんだけ厳しい戦いに漢(おとこ)たちが挑んでいるのかは、またいつかご紹介するとして、そういう研究をするぞー!と、先頭に立ってわたしたちのお尻をぺんぺん叩いているのが、共同首席研究者のモリ・ジェームズ・ジロウさんです。

この方、とっても気さくな人で、わたしもつい、「ジムさん、ジムさん」と気軽に声をかけてしまうのですが、実は京都大学防災研究所の教授です。こわっぱなわたしからしたら、ずいぶんとえらい方なのです。でもなんとなく、その人柄のフランクさや、英語での会話に甘えてしまって、「おいジム、調子はどうだい?」な~んて、テキサスのカウボーイのようなため口をきいてしまうのです。




ドリラーの操縦席に座り、ちょっと童心に帰ったジムさん
写真提供:Sanny Saito for JAMSTEC/IODP



さて、そんなモリ教授に、なぜ「ちきゅう」が持てる限りの力を出し切っても、ようやく達成できるかもしれない、という厳しい調査に挑むのか、お話を伺いました。

といったところで、続きはまた次回!になってしまったようです。ではでは!

(つづく)

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