科学目標

IODP第370次研究航海では、高知県室戸沖の南海トラフ沈み込み帯先端部に位置するODPサイト1174の近傍で新たに掘削を行い、堆積物や岩石のサンプルを採取します。深くなるにつれて現場の地層温度が上昇し、それに伴って微生物群集の種類、代謝機能や活性などが変化することが考えられます。また、これまでの海洋掘削科学の成果から、海洋堆積物中の微生物の量は、深さと温度が増すにつれて減少することが予想されます。しかしながら、海底下深部堆積物の生命圏の実態と拡がりの多くは不明のままです。例えば、海底下深くの高温の堆積物環境に生息する微生物の活性は、有機物の熱による分解作用によって生じたエネルギー基質の供給によって保たれているかもしれません。これらの科学的な疑問や仮説を明らかにするため、IODP T-Limitプロジェクトでは、最先端の生命検出および細胞計数法や分子生物学的・分子地球化学的手法を海底下深部から得られるサンプルに適用し、海底下生命と現場温度を含む環境条件との相互関係の全体像を明らかにします。具体的には、環境ゲノムとその遺伝子発現に関する研究や、培養法による分析、生物地球化学的な活性測定、先端的な有機地球化学分析、海底下深部の微生物が使える化学物質に特化した熱力学的・反応速度論的考察などを行います。さらに、熱分解によって生産される高分子の有機化合物の構造的な変化を明らかにします。本航海で期待される調査結果は、約15年前にほぼ同じ場所で行われたODP Leg 190の掘削調査では解明できなかった、海底下の生命と生命圏の限界に関する我々の理解を大きく拡げることになるでしょう。

  • 生命圏‐非生命圏の境界域を含む温度範囲に生息する海底下深部微生物群集の量、多様性や活性を決定する原因を明らかにする。
  • 海底下深部生命の生息可能条件と深度における熱分解によって生じるエネルギーと栄養基質の相関関係を理解する。
  • プレート沈み込み帯における海底下深部微生物の生息可能条件および堆積物や玄武岩の化学的・物理的環境の特徴を明らかにする。

航海共同首席研究者の稲垣博士に聞きました

Q. 「海底下生命圏」とは何ですか?
A.

50年近くにおよぶ海洋科学掘削の歴史の中で、深海底下に生きる微生物群の存在は全く予想されておらず、その発見は驚きをもって受けとめられました。しかし、今では海底下を生活圏とする微生物群はいたるところに存在することがわかっています。貧栄養水塊の海底堆積物中、基盤岩、また海底下2.5 kmの大深度岩石中にさえも、海底下微生物群は存在しているのです。私たちが海底下生命圏に注目するのは、地球環境のなかで最も広大な生態系の一つであるからです。海底下には海水中の生物量に匹敵するくらいの微生物細胞が存在すると考えられています。しかしその推定も過去10年の間に何度か修正されていて、未だにその全貌は解明されておりません。海底下の深度とともに地温が上昇するので、おそらく生物はどこかの地点でその存在の限界を迎えるでしょう。では、その深度とは?生命限界の極限要因も、その限界深度がどこにあるかも、私たちはまだ知らないのです。

Q. 海底下生命圏の“限界”を決めているものは何だと予想しますか?
A.

第370次研究航海では、30~130℃の環境に生存している海底下微生物の群集組成、機能や活性について研究することが目的です。この30~130℃という温度範囲が、無酸素状態の堆積物中の微生物にとって、生存できる温度の上限と考えられているからです。海底下において、熱は生体分子の変性によって直接的に、あるいは環境の変化によって間接的に生命の限界に影響する可能性があります。そのため、その生息環境の物理的・化学的性質を知る必要があります。さらに、堆積物中の有機物が埋没過程で熱分解されることが、微生物活動を抑制するのか活性化するのかを明らかにしたいと考えています。

Q. なぜ南海トラフで掘削調査を?
A.

掘削地点をどこにしようか検討しているときに、南海トラフの室戸沖が最も有望な場所だと思いました。ユーラシアプレートと形成年代が若く高い熱流量を持つフィリピン海プレートとがぶつかり合う沈み込み帯である南海トラフの中でも、この地点は海底の熱流量が特に高いことが知られています。地熱勾配は他の地域の実に4倍にもなるので、海底下を1.2 km掘り進めるだけで、ターゲットである温度130℃の地層にたどり着くことができます。これが他の海域だと、海底下を4 kmは掘削することになり、掘削計画ははるかに複雑で高価なものとなるでしょう。さらに、南海トラフはこれまでにも盛んに調査が行われているということが、今回の研究には理想的でした。これらのデータは、私たちの研究目的を達成するための掘削計画や試料採取プラン、航海後の研究プランを考えるにあたって、貴重な情報となりました。

Q. 掘削場所にはどんな特徴がありますか?
A.

今回掘削する場所は、1990年に行われたODP第131次研研究航海、及び2000年に行われたODP第190次研究航海で掘削したODPサイト808と1174のごく近傍になります。四国から125kmに位置する南海トラフのプレートの沈み込み帯先端部であり、水深は4765mです。
この場所を海底下の微生物活動の最高温度を探る場所として選んだのにはいくつか理由があります。第一の理由としては、~100℃/kmという地温勾配は我々の研究テーマを実施するのに理想的だからです。温度による生物圏/非生物圏の境界に比較的浅い深度で到達できることは既に述べたとおりですが、例えば沖縄トラフの熱水噴出孔のように地温勾配がもっと高い場所と比べると、温度が徐々に上がることで好冷微生物(最適増殖温度領域:<20℃)、中温性微生物(20~45℃)、好熱性微生物(45~80℃)、超好熱性微生物(>80℃)のそれぞれに適した領域を十分な幅で観察することができます。今回の掘削地点では、生物圏/非生物圏の境界に比較的浅い深度で到達できることに加えて、温度勾配が十分な解像度を持っていることも大事なポイントです。

第二の理由として、この地点では過去データで既に微生物群集に変化が見られることが分かっていることです。ODPサイト1174では深度とともに微生物細胞の数が徐々に少なくなり、海底下800m付近で検出不能となりました。この地点の温度は85~90℃と推定されています。さらに、この地点はデコルマと基盤岩に沿った流体移動の影響が見られる可能性があります。深部流体は(超好熱性)微生物そのものや、栄養素、電子受容体を運び込むことによって、海底下生物圏の限界付近での生命活動を活性化する可能性があります。
最後に大事なことを言い忘れていましたが、この場所は高知コアセンター(KCC)から近い場所にあるため、微生物群集と生命圏の限界での現象の解明に挑戦するための施設を利用することが可能です。ちきゅうからKCCまで、ヘリコプターを使って貴重なコアを短時間で輸送することで、陸上研究者は劣化しやすい試料でも最先端技術で分析することが出来るでしょう。

Q. なぜ、過去に既に調査された場所に近いところで掘削するのですか?
A.

16年前にODPサイト1174で掘削及びサンプル採取が行われましたが、当時と比べると細胞分析法や分子微生物学、同位体地球化学及び分子地球化学における分析技術は格段に進歩しました。ODP Leg190ではD/V JOIDES Resolution(掘削船ジョイデスレゾリューション号)の船上で、アクリジンオレンジで染色した微生物細胞を顕微鏡で目視して数えていました。そのため1立方センチメートル中に少なくとも60,000個の細胞が含まれていないと計測できませんでした。クリーンルームや適切な試料汚染の評価、自動化された計測技術を使用すれば1立方センチメートル中に10個程度の細胞でも検知することが可能です。下北半島沖の海底下深部堆積物では海底下2.4km(~60℃)で固有の微生物細胞を見つけることに成功しました(Inagaki et al, 2015)。他の微生物学的・地球化学的分析手法も同じように進歩しています。私たちは今、新たな疑問に取り組む多くの専門分野の研究者チームと、細胞濃度が急激に下がることが予想される場所で起こる生物的・非生物的遷移時の微生物活性及び生物地球化学的プロセスを調べる革新的技術と共に、ODPサイト1174を再び訪れることになります。

海底下生命圏の温度上限を調査するには、温度の情報をしっかり得ることが非常に重要になります。ODPサイト1174付近では様々な研究で高い熱流量が観測されている一方で、Leg 190では信頼できる孔内温度計測のデータが2つしかなく、推定結果も不確実なものでした。確実な孔内温度データを得るために第370次研究航海では孔内に長期温度計測装置を設置します。これにより、掘削地点1174の再調査は南海トラフ沈み込み帯全体の流体移動を知ることに大いに貢献できるでしょう。

Q. 第370次研究航海では研究者たちはどのような分析を行うのですか?
A.

研究航海チームには微生物学者、有機・無機地球化学者、生物地球化学者、物性研究者、堆積物学者、構造地質学者と古地磁気学者からなり、採取された堆積物や基盤岩であらゆる分析を行います。研究航海の目的には極めて重要な3つの分析があります。その3つとは、汚染の評価を含む品質保証/品質管理、急いで分析する必要がある(生物)地球化学的及び微生物学的分析、そして他の掘削孔から得られたデータとの相関を得るための層序学です。

コアが回収されると、船内にある医療用X線CTスキャナーですぐに画像解析を行います。この非破壊検査により堆積物の内部を可視化することができ、擾乱のない区間を見極めるのにとても有用です。擾乱のない区間のみが生物地球化学的及び微生物学的分析に用いられます。採取した区間が掘削中に汚染されていないことを確かめるために、掘削流体中に化学トレーサーを添加し、堆積物コア試料中でそれが検出されるかを確かめます。「ちきゅう」の研究区画は地球化学分析のために非常に整備されており、一連のガス分析から間隙水分析、固相分析まで全て船上で行うことが出来ます。このことは間隙水中の栄養塩濃度などの時間変化しやすいデータを得るためにとても重要です。さらに高度な装置での分析が必要な場合は、サンプルを適切に保管し専門の研究所に輸送します。生命圏の限界を探るためには、堆積物コアを汚染無しで扱うことが非常に重要になります。

Q. 本研究航海の難しい部分は何ですか?
A.

本研究航海はいろんな面において困難が予想されています。掘削エンジニアは難しい地層に直面することでしょう。厚いタービダイト層、破砕帯、脆弱な堆積物からなる地層で掘削孔内の安定性を保つのは困難です。それと同時に私たちは高品質なコアをしっかり回収することを期待しています。今回、掘削孔を保護するためにケーシングを設置することにし、最高のコアを得るために新しい掘削技術を準備しました。強い黒潮の流れはオペレーションをさらに難しくさせます。
科学的には、微生物学者と生物地球化学者は微生物生息域の限界付近において、非常に低いバイオマスの検出という難題に挑戦します。私たちの手法の検出限界に近い試料で、最高品質のデータを生み出すことが必要になります。また、慎重な汚染管理、豊富なサンプル、慎重に計画された研究計画、KCC研究施設の活用、そして世界中の優秀な研究者を巻き込むことで、これまでの限界を押し上げるつもりです。さらに、信頼できる温度データを取得することが極めて重要であり、孔内温度計測も重要な部分になります。特に、温度が装置の耐久温度を超えてしまうような環境では言うまでもありません。
最後に、研究航海の目的を達成するには、研究者だけでなくテクニシャン、及び船のクルー全員が一丸となることが不可欠です。第370次研究航海は乗船研究者チームと陸上研究者チームの両方が同時に作業する世界で初めての航海であり、通常の航海と比べるとプロジェクト管理が複雑になります。そのため、本研究航海では3名の共同主席研究者と2名の研究支援統括が研究者チームを率いています。

Q. KCCって何ですか?
A.

高知コアセンターは海洋掘削で得られたコアサンプルの適切な保管と科学目的利用を目的として高知大学と海洋研究開発機構が共同運用している研究施設です。高知コアセンターは、地球の歴史とダイナミクスを探求する国際海洋研究に25か国が協力するIODPの3施設あるコア保管施設の一つです。アメリカのTexas A&M UniversityとドイツのBremen Universityと一緒に、KCCではIODPコアサンプルを管理し最先端施設で最前の研究を行っています。

Q. 陸上研究チームは何をするのですか?
A.

第370次研究航海のミッションは生命圏限界の探求であり、私たちは生物が活動できるギリギリの環境にアプローチします。しかし、その境界を探すのは言うほど簡単なことではありません。地上では、私たちの周りには無数の微生物がいます。「ちきゅう」の研究区画ですら、サンプルに微生物が付着するかも知れません。そうなった場合、微生物がコアサンプルの中にいたものなのか、周りから付着したものなのか区別がつきません。
KCCでは、周辺環境の微生物による汚染のないスーパークリーンルームと呼ばれる超高清浄度施設があります。生物フリンジでは、微生物の数が非常に少ないことが予想されます。私たちは細胞の検知に最高感度の技術を用いて生命の極限にチャレンジします。また、安定したデータ精度のためにいくつかの科学分析も行います。船上及び陸上チームが同時に活動することは初めての試みであり、研究航海の目的達成のためには必要不可欠なことです。このチームでの取り組みに大変わくわくしています。