文部科学省委託事業

東海・東南海・南海地震の連動性評価研究

地震に強い社会をめざして。防災分野が連携して、東海・東南海・南海地震の連動発生を評価します。

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東海・東南海・南海地震の強震動と津波の再評価
-1605年慶長地震における八丈島の津波痕跡高の再検討

古村孝志1,3・今井健太郎2・前田拓人3・原田智也3
1: 東京大学大学院情報学環総合防災情報研究センター
2: 東北大学災害科学国際研究所災害リスク研究部門
3: 東京大学地震研究所

1.慶長地震と津波

南海トラフにおいて1605年に発生した慶長地震では、犬吠埼から九州までの広範囲に津波が押し寄せ、八丈島で57名の死者、阿波宍喰で1500名の死者をもたらした大地震であった。その一方で、揺れによる被害を記した資料は、津波被害に比べて少なく、この地震は強い揺れを伴わない津波地震であったと考えられている。

八丈島の10-20m津波?

当時は江戸幕藩体制の草創期であり、政治機構の整備が進んでおらず、史料の残存状況が良くない。限られた史料の中でも、八丈島で津波により57名(75名との説もある)が死亡したという『八丈実記』の記録は重要であり、この記述をもとに、八丈島に最大10-20mの津波が来襲した可能性が議論され、小笠原諸島や東海~関東の津波防災に大きな影響を与えてきた。

   ところが、日向灘~駿河湾のトラフ軸寄りの部分を慶長地震の震源域とする津波シミュレーションによる結果では、八丈島の西側海岸での津波高は2m程度に止まり、10m津波の再現はよほど特殊な波源モデルを考えない限り難しい。

慶長地震の津波シミュレーション
慶長地震の津波シミュレーション

3.『八丈実記』の精査と現地調査

『八丈実記』は、近藤富蔵が八丈島に流罪中の1848~1861年に、島内に存在する諸記録をもとに編纂したものである。ここには、慶長地震(1605年)、延宝房総沖地震(1677年)、元禄関東地震(1703年)、宝永地震(1707年)などによる強い揺れと海嘯(津波)の記録や伝承がまとめられている。島の西側海岸に近く、当時の島の人口の多くが集まる、八戸(谷ヶ里、八トヶ原;図2)の津波被害が詳細に記されており、津波の規模と被害を表1のように読み取ることができる。

  慶長地震における八丈島の津波は、元禄関東地震による津波よりも低く、戸の集落までしか到達していなかった可能性が高い。慶長地震の津波は、「谷ヶ里の村の下が残らず打ち払われた」とあるように、八戸集落の下、現在の八重根港と、海岸を掘り込んで作られた八重根漁港の付近(写真1)までにとどまり、海抜8~10mの高台にある八戸集落までは浸水していない。

八重根漁港
八重根漁港
大賀郷から見る八戸、弁天山
大賀郷から見る八戸、弁天山

4.八丈島10-20m津波は、延宝房総沖地震または元禄関東地震のもの?

なお、延宝房総沖地震と元禄関東地震では、八戸の集落が津波で浸水している。このとき、八トヶ原(現在の八戸)の半分、稲宮山(写真2;現在の弁天山;すそ野の標高10m)の左右を打ち払って津波が来襲したとの記述があり、10mを越える津波であったとしても不自然ではない。これまで議論されてきた八丈島の10~20mの津波は、慶長地震によるものではなく、延宝房総沖地震または元禄関東地震による津波と混同された可能性が高い。

『八丈実記』における津波被害に関する記述(解釈)
地 震 名 津波に関する記述(解釈)
1605年 慶長地震 谷ヶ里の村の下が残らず打ち払われた。島の田地も多く損失し、大幅な年貢の引き下げがあった。
1677年 延宝房総沖地震 谷ガ里の半ばまで波が入り、島の13艘の船が波に取られた。
1703年 元禄関東地震 大波打ち上げ八トヶ原の半分、稲宮山(今の弁天山)の左右を打ち払って、蒔きつけた麦・芋・あしたばが全滅した。御蔵役の道具が、屋敷・石垣ともに引き払われ、島の漁船が流された。
1707年 宝永地震 ヨダ(津波)が少し入った。末吉村(八丈島の南部)へ波がよほど(激しく)揚がった。

 

津波被害が記されている島の西側海岸の集落
津波被害が記されている島の西側海岸の集落