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エッセイ1:私と祖父とガンマ線を巡る因縁の話

 私は学生時代からガンマ線分析を通して、堆積物の中に含まれる放射性核種の定量を行ってきました。そして今でもこれらの分析を本務の中で続けており、海底では物質がどのような過程を経て堆積し、海底に埋まっていくかという研究をしています。

 私が初めてガンマ線分析装置を使ったのは、修士1年の時のことです。そこでの私の指導教官は松本英二先生、天然放射性核種の分析や、液体シンチレーションカウンタや、加速器質量分析計を使った炭素14年代測定がご専門でした。その研究室では、海や湖の泥の中に含まれる、鉛210という天然放射性核種が泥の中深くなるに従って減っていくという現象を利用して、この海底は、千年で何cmくらいの速度で泥が溜まっていくか、その泥の中には有機物がどれだけ含まれているので、この海底は炭素のシンクとしてどれくらいの能力があるのか?ということを調べる研究をしていました。私も、修士〜博士課程のテーマとしてこの研究を進めていました。

 松本先生の指導教官は三宅泰雄先生という方でした。三宅先生は地球上、とくに水圏・気圏で生じている様々な現象を、化学分析とモデルによって解明する、という手法を立ち上げられた地球化学の祖とも言える方で、東京教育大の教授であるとともに、気象研究所地球化学研究部にもラボを置かれていました。このため、松本先生は実験を行うために、高円寺にあった気象研究所に通われていました。当時の三宅研からは非常に多くの業績が生まれ、著名な研究者が沢山輩出されたことは有名ですが、なかでも女性研究者の草分けでもあった猿橋勝子先生(後に猿橋賞を創設されました)と、猿橋・三宅コンビによる海水中のセシウムの高精度分析は特筆すべきものです。この研究によって、水爆実験によってばらまかれたセシウムをはじめとする放射性核種が太平洋上に広く分布することが突き止められました[1]。そしてこの結果は、1963年の部分的核実験禁止条約発効のための原動力になったのでした。

 あとになって知ったことですが、高円寺の気象研究所(中央気象台の研究所で、その前身は陸軍気象部だった)には、私にとって浅からぬ因縁がありました。それは、私の祖父(母方)の人生です。祖父は職業軍人で、陸軍航空士官学校を卒業後いくつかの部隊を経た後陸軍気象部に配属、気象観測業務も行っていました。終戦直前には陸軍気象教育部で教鞭を執り、復員後は中央気象台に勤め、高層気象観測を担当していました。そこでは今の私と同じように観測船に乗り、ラジオゾンデを飛ばすなどの観測業務も行っていたそうです。気象研究所創立60周年の記念講演(元気象研究所所長、原田朗氏による)によれば、気象研究所は旧陸軍気象部から、ラジオゾンデに使う「温度測定用変調電波発信装置」の技術を受け継いだとのこと、祖父もこの装置の開発か、あるいは運用に関わっていたのかも知れません。この頃、丁度三宅先生も中央気象台におられたようですが、学生時代に偶然図書室で読んだ本の中に、三宅先生がその時期の研究所の内情に触れられた回想録があるのを目にしました。その内容は、当時所内には、研究者と軍人上がりの人達との間でかなりの諍いがあり、結局彼らは研究所を出ていったというもので、元の軍人達を嫌悪する辛辣なものでした[2]。恐らく1948-9年頃の話ではないでしょうか。私の祖父は将校経験者ということで、GHQの公職追放令により中央気象台を退職したのですが、ひょっとしたらその時、祖父は三宅先生と出会っていて、所内の争乱に巻き込まれていたのかも知れません。だとすると、私は、祖父達を追い出したかも知れない三宅先生の孫弟子、ということになってしまうのです。

 祖父は気象研究所を離れた後に三ヶ日の祖母の家に入り、亡くなるまでずっとミカンの栽培を行っていました。元々研究者気質だったためか、ものごとを突き詰めることが好きで、畑の土壌改良や木の枝ふりのことなど、様々な研究をしていたようです。その努力の成果は家に入って間もなく現れはじめ、ひいては三ヶ日みかんのレベルを大きく引き上げることになりました。私は、祖父たちが育てたミカンの味を超えるものに今だにお目にかかったことがありません[3]

 学生時代には何の知識も無しに、海底について面白そうな研究ができそうだから、という単純な理由で松本研の門を叩いた私ですが、先生から戴いた海底堆積物のガンマ線分析のテーマや現在の仕事の裏には、戦後間もない気象研究所での祖父の仕事や追放のこと、その後の気象研究所で行われた、世界を揺るがした放射性核種分析の研究という大きなドラマが隠れており、しかもこれらは三宅先生と松本先生を通して私につながっていたのです。これらのことをあとになって知った時は驚きを禁じ得ませんでしたし、東北沖地震と原発事故後の緊急調査に参加して日本海溝の調査を行い、成果を発表することになった時には、強い因縁を感じずにはいられませんでした[4,5]。ほんとうに、とんだテーマを戴いたものです。私がこの世界に入ったのは自らの意志によるものと思い込んでいますが、ひょっとしたら自然科学に興味を持ったときから、何かに導かれて来たのかも知れません。

 ちなみに学生時代に使っていたガンマ線分析装置は、松本先生の退官後ユーザー不在の状態が続いていましたが、多くの方々のご厚意と協力のお陰で今の職場に移設され、再整備の末、現在は実験室で大忙しの稼働状態が続いています。

[1]:三宅泰雄, 死の灰と戦う科学者、岩波新書, 1972
[2]:三宅泰雄, 創立のころ、気象研究所三十年史、90-92, 気象研究所, 1977
[3]参考:三ヶ日みかん 革新の軌跡(中日新聞静岡版)
[4]:Ebihara, M. et al. Interdisciplinary study on distributions of radionuclides and their dispersal processes from the accident of Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant after the eastern Japan earthquake and tsunami in 2011, European Geosciences Union General Assembly 2011, Vienna Austria, 2011.
[5]:Oguri, K., Kawamura, K., Sakaguchi, A., Toyofuku, T., Kasaya, T., Murayama, M., Glud, R. N., Kitazato, H., Hadal disturbance in the Japan Trench induced by the 2011 Tohoku-Oki Earthquake. Scientific Reports, 3, 1915, DOI:10.1038/srep01915, 2013. (Open Access)

更新日 Sep/20/2011, 加筆 Jun/6/2016, Dec/28/2017

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