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エッセイ2:イギリスに渡った研究者−シズオ・イシグロをさがして

 祖父が気象研究所に勤めていた頃、ある研究者との親交がありました。この方は陸軍時代の祖父の部下だったのか、あるいは祖父が教鞭を執っていた陸軍航空士官学校の教え子だったのか、今となってははっきりしませんが、なぜか気が合い、祖父とは家族ぐるみの付き合いをしていたようです。名前を石黒鎮雄さんといい、高円寺にあった気象研究所に勤務された後に長崎海洋気象台に異動され、そこで潮位や波高の変化の研究をされていました。育ちの良さを感じさせる非常に優秀な研究者だったそうで、ある海難事故が多発する海域の海底を模したモデルを作り流れを再現、その結果から実際の海底に波消しブロックを設置して流れを変え、事故を減らすのに成功した[1]、という話を聞いたことがあります。また、石黒さんは手が器用で機械にも強く、祖父は、骨が折れてしまった雨傘に空き缶を切り出して作ったブリキの金具をあてがい、修理をしてもらったことがあったそうです。本業では電子式波圧計[2]〜[6]をはじめとする観測装置の開発のほか、まだオペアンプすらない時代にアナログコンピューターによる解析[7]も手がけられました。つまり石黒さんは、エレクトロニクス技術に長けた実践的な海洋物理学者だったのです。私はこのことを知り、研究の中でエレクトロニクスと観測を融合させていたなんて、物理と化学という違いはあっても、今、私が行おうとしていることそのものじゃないか!と驚き、祖父の友人だった人、ということ以上の親近感を抱くようになりました。

 1960年、石黒さんはイギリスに渡り、国立海洋研究所(現在はNational Oceanography Centreの一部門)で主任研究員の職を得ます。当時既に、20代の前途有望な研究者がアメリカなどに留学して才能を開花させることはありましたが、石黒さんは40歳にして、しかも幼い子供達を含む家族を引き連れ、日本人の全くいない世界に飛び込みました。これは、今も一般的に行われているような、若手研究者の海外留学とは全く異なるものでした。石黒さんは1957年にユネスコの奨学金を得て[8]、この研究所に一年間留学されています。そして翌年には「エレクトロニクスによる海の波の記録ならびに解析方法」という博士論文によって、東京大学から学位を授与されました。このように一見順風満帆だった石黒さんが、職を辞めてでも渡英する道を選んだ背景には、石黒さんを取り巻く、当時の日本のアカデミズムの影響があったようです。

 石黒さんがイギリスに渡った頃、祖父はすでに中央気象台を去りミカン農家になっていました。しかし石黒さんとの親交は続いており、手紙のやりとりをしていました。私が子供の頃、外国とは何の関係もなさそうな家に、見なれない海外の切手が貼られた手紙があるのを不思議に思っていましたが、これは、石黒さんが祖父に宛てた手紙だったのです。祖父は、その手紙に書かれていたことを私によく話してくれました。とくに、エディンバラ公が自らヘリコプターを操縦して研究所を訪れる、という話は圧巻でした。

 祖父と石黒さんの関係のことは最近まで忘れかけていましたが、イギリスへの出張がきっかけとなりネットで検索をしてみたところ、意外な事実を知りました。石黒さんの情報はあまり得られませんでしたが、そのお子さんはカズオ・イシグロの名で知られる有名な小説家になられていたのです。氏の作品の中でも「日の名残り」や「わたしを離さないで」といった小説はとりわけ評価が高く、イギリスで文学賞を受賞し、また映画にもなっています。カズオ・イシグロ氏が紡ぎ出す一連の小説の背景には、氏の日本で過ごした幼少時代の記憶が深く関係していると指摘されており、ご本人もテレビ番組「ETV特集、カズオ・イシグロをさがして」のインタビューで記憶についての考えを述べておられましたが、おそらく石黒一家の渡英がなければ、小説家カズオ・イシグロの誕生は無かったことでしょう。祖父は、結果として世界的な小説家を生むことになった石黒さんの重い決断とその理由を知らされていたのでした。

 私が知る限り、石黒さんが最後に日本を訪れられたのは1983年のことで、それは、イギリスに骨を埋める覚悟を抱いた帰郷だったと聞いています。祖父とは、その時まで手紙のやりとりが続きましたが、それから2年後の1985年に祖父が亡くなり、以降、石黒さんとの音信は途絶えてしまいました。ただ私には、祖父から、いつかイギリスに行くことがあったら、是非石黒さんを訪問したらいい、と言われていたことが記憶の中に残っていました。でもまさか、当時中学生だった私は、将来、今のような仕事に就くことになるとは思ってもおらず、海外に出ることも無いだろうと考えていましたので、そんな話も聞き流していました。

 時は流れ、2010年にはじめてイギリスに出かける機会を得ました。心の片隅に、祖父の想いを抱きながらの出張となりましたが、その後国内の海洋物理学関係者の方からお寄せいただいた情報から、石黒さんは2007年にお亡くなりになっていたことを知りました。もしお会いできれば、是非とも祖父や家族のことをお伝えし、また、当時の中央気象台のことをお聞ききしたいと思っていましたので、大変に残念でした。

 今私の手許には、石黒さんの著書「日本語からはじめる科学・技術英文の書き方」(丸善,1994年)があります。この本は、より明快で論理的な文章を書くために留意することに言及されており、読むほどに石黒さんの鍛え抜かれた思考に触れるような気分になります。また、例文の中にCCDカメラやワープロなどの装置を見かけることから、石黒さんの技術への広い興味は健在だったことが伺えます。石黒さんにお会いすることはついにかないませんでしたが、この本は、祖父や石黒さんからの、なかなか文章を書けない私への激励メッセージと思い、いつも座右に置いています。

 もし中央気象台気象研究所、長崎海洋気象台やイギリスでの石黒鎮雄さんのことをご存じの方がおられましたら、ご一報を頂けましたら幸いです。

[1] 石黒鎭雄、藤木明光(1950), 廣瀬附近の潮流の模型実験、海象と気象、4(1)、1-9.
[2] Ishiguro, S., (1949), An electrical recorder for sea wave pressure. The Oceanographical Magazine, 135-141.
[3] 石黒鎭雄(1949), 電氣的自記波圧計(第一報)、海象と気象、2(5)、41-49.
[4] 石黒鎭雄(1949), 電氣的自記波圧計(第2報)、海象と気象、3(2)、77-96.
[5] 石黒鎭雄(1956), 電子管式自記波圧計、第三型の試作、日本海洋学会誌、12(1)、7-11.
[6] 石黒鎭雄、藤木明光、永田三和(1956), 電子管式直読・自記波圧計、第6型の試作、日本海洋学会誌、12(1)、1-6.
[7] Ishiguro, S., Fujiki, A.(1956), An analytical method for the oscillations of water in a bay or lake, using an electric network and and electric analogue computer. Journal of Ocanography Society of Japan, 11(4), 1-7.
[8] UNESCO (1956), Activities report for the period October 1955 to September 1956. 1-6.

 追記:イギリスでは、石黒さんが行った北海の波高予測の業績が改めて評価されているようです。日本でも、長崎海洋気象台時代の仕事も含めた一連の成果が、この分野のパイオニア的な研究として再評価されることになれば、と思います。

光易恒(2017), 石黒鎭雄博士の思い出, JOS News Letter, 7, 1, 5-6.
National Institute of Oceanography (1968), Storm Surges in the North Sea. National Oceanography Centreによるフィルムのアーカイブ。
Science Museum (2016), Modelling the oceans. ロンドン科学博物館の解説と、実際に解析に使用されたアナログコンピューター。

 

更新日 Oct/6/2011 追記 Oct/10/2017

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