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エッセイ3:龍川良克先生

 論文や報告書を書いていて、いつも頭に浮かぶのが、私が通っていた豊橋南高校でお世話になった龍川良克先生のことです。

 先生は現代社会の担任でした。当時の現代社会は共通一次試験をはじめとする大学受験の主要科目ではなかったためか、他の科目に比べると、あまり力の入った授業は行われなかったような印象がありました。しかし、この先生の授業はまるで違いました。

 まず、膨大な量のプリントを配布し、生徒ごとに解かせる問題を決めていきます。それも暗記した内容を答えるようなものでなく、必ず文献を調べて、文章としてまとめなければならないものばかりでした。先生は授業の度に問題を出し、生徒は次の授業になると、黒板に回答を書いていきます。そこで先生は、生徒が書いた回答に添削をしていくのですが、内容の矛盾や言葉の使いかたに間違いがあると、そこを指摘してやり直しを命じていきました。先生が納得するまで、その回答は次の授業、またその次と、添削は延々と続きました。そして、ようやく破綻のない回答をすると、完了を意味する(済)という印を答案の横に書かれました。主要科目を優先すべき時(これは生徒側の思いに過ぎないかも知れませんが)に、現代社会の授業の回答を探すために図書館に通いつめ、しかも回答の文章がなっていないと容赦なくやり直しを命じられるのは、かなりきつかったです。

 ある日の授業で、先生が私が書いた回答に目を通したときのことです。先生は「お前、この文章の句読点以外のところで息を切らずに読んでみろ」と仰いました。息を長く続けられる自信はあったので、先生が何を思ってそういう指示をされたのか全く気づかず、長大な文章を一気に読み切ってみせました。恥ずかしい天然ボケです。いつもの先生なら、答えに窮している生徒に「おろか者!」と一喝し、その後で文法や言葉の間違い、ロジックの矛盾点を明確に指摘されるところですが、あの厳しい先生も予想外の回答に驚かれたようで、しばし沈黙の後「おい、本当にそれでいいのか?」そこで初めて、句読点の意味に気づかされたのでした。

 他にもこの授業の思い出は数多くあるのですが、当時は、なぜ現代社会という授業で、このようなシゴキがあるのか不可解でした。しかし、今になると、先生が授業を通して、いかに大切なものを身につけさせてくれたのか、身に沁みます。他の卒業生が、龍川先生とその授業のことをどう思われているかは知りませんが、私にとって、あのときの授業が、どれだけ役に立っていることでしょうか。

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 龍川先生は生徒指導も担当されていました。80年代の愛知県の中学や新設高校の理不尽な校則と厳しさは全国的にも有名でしたが、先生の指導もとても厳しく、生徒には大変評判の悪い、いわば憎まれ役でした。今でも当時の先生のことを嫌っている卒業生は多いと思います。

 その龍川先生が執拗に指導していたことのひとつに、革靴での登校の禁止がありました。毎朝校門に立ち、革靴を履いた生徒を見つけると、烈火のごとく叱りつけるのです。ある日の全校集会で、先生は、なぜ革靴を履いて登校してはいけないのかという理由として、高校を作るときに、運動場の土を確保するのに大変な苦労があったこと、何もなかった高校の敷地を緑で覆うよう勉めたOBの努力のことを挙げて説明されました。しかし、その説明は納得できませんでした。緑のある場所は立ち入り禁止だし、そもそも運動するのに革靴で運動場に入ることありません。練習のあとでグラウンドを均らしているとはいえ、野球部やサッカー部の部員は革靴どころかスパイクを履いているではありませんか。

 この疑問は、ひょんなことで母校を再訪問したときに氷解しました。同級生で、この学校の先生になったK君と、当時の私の担任で、校長になられたA先生が、当時は知らなかった、高校の所在地のことを教えてくれたのです。私が通っていた高校は、かつて陸軍が飛行場を建設した場所にありました。そこは演習場でもあり、周りは全て荒れ地だったのです。ここでは戦争中、軍靴を履いた兵士が演習を繰り返していましたが、戦後は大規模な開拓によって全国トップクラスの農業生産高を誇る緑の畑に変わりました。しかし、その土質は作物の育成に適さない劣悪なもので、しかも度重なる演習によって踏み固められており、満足な水すらも得られない状態だったため、開拓の苦労は大変なものだったそうです。わが母校は、その何もない場所に新設校として建てられました。そして、初期の先生や生徒の手によって、校内の緑化が進められました。その道は平坦ではなかったようです。

 昭和一桁生まれの龍川先生は、そんな歴史を経た場所にできた新しい高校で、軍隊を思い起こさせる革靴の列を見るのが堪えられなかったのです。先生の一見理不尽な指導の裏には、先人の努力によって生まれ変わった緑の土地や母校を、再び踏み固めるような人間に育って欲しくない、再び戦争に進むような愚は避けて欲しい、そんな願いが込められていたのでした。おそらく、先生から注意を受けた人たちのうちで、その当時に、先生の思いに気づいた人はいないでしょう。あのとき、もし先生が、ご自身の本当の思いを語られることがあれば、生徒は暗い歴史のことや開拓のこと、そんな因縁のある場所に、自分たちがまさにいることに気づいたと思います。しかし、先生は話されませんでした。いや、あえて語られなかったのではないでしょうか。その背景には、生徒指導担当者たるもの、決して生徒に迎合したり共感を持たせるようなことはすべきでない、という信念をお持ちだったのかも知れません。ともすれば微妙な問題を、偏よった考えとして多感な年齢の生徒に植え付けることになりかねない、ということに気づかれていたのかも知れません。あるいは、先生ご自身のプライベートな事情があったのかも知れません。まあ、本当のところは分からず、推測することしか出来ませんが。

 ただひとつ言えることは、先生はすべての生徒に、なぜ高校に革靴で登校してはならないのか、その真意を理解させようとは思われず、「悪役教師」に徹していた、ということです。

 いつか、分かる奴だけ分かればいい。それでいいのです。

 私は先生に出されていた宿題を、20年以上かかってようやく解いた気がしています。論文や報告書を仕上げる仕事に就いてからも、未だに「名教師」龍川先生のことを思い出し、レビューワーやエディターから(済)をもらえるよう、今日も悩みながら文章を書いています。

更新日 Sep/21/2011

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