JAMSTECにおける熱帯観測網の発展
- 地球環境部門専門部長 (西太平洋国際研究担当)
- 安藤 健太郎
トライトンブイ (写真1) を展開し熱帯域の大気海洋相互作用の研究を始めたのは、1998年、今から約20年前の事です。しかし、JAMSTECの熱帯研究を遡ってみると、その11年前の1987年に、科学技術庁によるエルニーニョ緊急研究として実施された当時現役バリバリの「なつしま」による赤道域の緊急観測が最初でした。
そのタイミングというのが1986年冬からエルニーニョ現象 (図1) が発生かという段階で、今のようにエルニーニョの予報が十分でなかったために、何はともあれ状況把握のために海を知る必要がありました。翌1988年には、JAMSTECは緊急研究の次に立ち上げられたJAPACSという当時の科学技術庁からの受託研究を実施する事となります。
なお、個人的な話をしますと、大学の修士課程で日本海を対象に大気海洋相互作用の研究を行っていて、博士過程にも行こうかと悩んでいた所でしたが、赤道も面白そうな気がしたのでJAMSTECの採用試験を受けて、JAPACSの担当になりました。
話を元に戻します。JAPACSという受託研究が終了した1993年以降は、JAMSTEC所内の研究資金によるTOCSと称するプロジェクトを利用して、太平洋赤道域のエルニーニョの観測のための米国のTAOブイ網の観測に協力し、中層ブイによる観測を行っていました。
国内では、並行して「みらい」の建造に向けた答申が科学技術庁
(当時) から出され、その中に米国のTAOブイに代わる大型観測ブイの展開による広域観測の必要性が謳われていました。これが、トライトンブイの始まりです。
始まりに際して、大型観測ブイを開発しなくてはいけませんので、米国のTAOを勉強する必要がありました。丁度その頃 (1994年4月〜1995年3月)、私は職員の海外研修の一環でNOAAのPMEL (米国ワシントン州シアトル市) に滞在しておりましたが、滞在理由の一つが、TAOブイの研修というものでした。しかし、私は海洋工学系の研究者ではありませんので、今思えば私を米国に行かそうとしてくれた言い訳だったのかなと思います。
代わりに、私がシアトルにいるという理由で一年の内で最も良い季節である夏に、沢山のJAMSTECの職員が、入れ替わり立ち替わり来たのを覚えています。海洋工学に専門性を持つ方も多く来てPMELのブイ技術者と打ち合わせをしてもらい、その後のトライトンブイの開発や運用に大いに役だったと思いますし、実は自分自身の勉強にもなりました。
結果的ですが米国に行かせてもらった理由は十分成立したように思います。加えてこの1年は大変充実していて、修士号を取得してJAMSTECに入ってから研究論文なんて一本も書けていなかったのですが、溜めていた題材を利用したりして3本も書けましたし、初めてAGUの秋季大会に参加し、初めて英語で研究発表をドキドキしながら発表したことを覚えています。
その研究の内容は1997年にJGRから出版され、20年以上経った今でも引用され続ける論文となり、大変思い出深い年でした。私の研究のキャリアには、3名のSupervisor (勝手にそう思っている) がいますが、その一人がシアトル滞在中にお世話になり、後にAGUのプレジデントにもなるNOAA/PMELのMcPhaden博士です。
1995年に帰国すると更なる追い風が吹いていました。日本とアメリカは、同盟国として仲良しであるのはご承知の通りですが、海洋関係でもTYKKIプロジェクト、これは太平洋観測研究イニシャティブの日本語でのイニシャルをとった名前のプロジェクトとして、日米で実施するプロジェクトが始まり、日米で協力して太平洋赤道上でブイを展開してエルニーニョの研究をしましょう、という事が決まりました。
日本からはトライトンブイ、米国からはTAOブイをお互いに提供して、データの不確かさも統一し観測項目も統一することとし、TAO/TRITONブイプロジェクト (図2参照)
という名前で、日米協力の象徴的な観測プロジェクトでした。
ただ一方で、既にあるTAOブイをトライトンブイで置き換える事になったため、実施する側としては米国についていくイメージとなり、そこから脱出することは難しかったというのが正直な所です。
実際にトライトンブイを製作する段階においては、海洋工学センター (当時) に主に担当して頂けました。設計では、所内の委員会においてどの様なブイにするかという会議が何度も行われました。TAOブイの様に安く製作して、漁船などで破壊され時に亡失となっても、直さないし回収の努力はしないという方針も考えられましたが、最終的には絶対壊されず亡くさない頑丈なブイにしよう、ということになりました。
この時のこの方針が、後々の運用面での多くの労力を現場サイドにもたらすことになりました。それでも、幾つかのセンサーを除いて日本製として5000 m級の係留系を製作して、その後観測において、外的要因で防ぎ得ない問題を除いて、問題なく長期に観測が実施できたことは素晴らしい事であったと思います。
実際の観測ですが、1998年以降トライトンブイは、TAOブイが観測してきた西太平洋域を肩代わりするようになりましたが、その海域は、TAOブイでの観測では漁船による破壊行為などで殆ど観測されない海域でした。TAOブイより堅牢なトライトンブイを利用することで、高い観測データの回収率を実現できました。これによりTAOブイのデータではデータが十分ではなく出来なかった研究が可能となり達成できた部分はあったと思います。
計測したパラメータの中で、塩分計測はTAOブイにはない新たな挑戦であり、センサーの検定とデータの品質管理には時間がかかりましたが、そこで培った技術はその後のトライトンブイの塩分データの品質管理のベースとなり、塩分データを利用した論文も多く出版できました。また、インド洋に最初に表層ブイを設置したのはJAMSTECであり、これはトライトンブイがあったからできた事でした。JAMSTECが最初に動いて国際的な場でインド洋のブイ網の構想が生まれ観測が始まり、その後インド洋の海洋研究は大いに発展して行きます。
2010年頃よりJAMSTECの船舶運用費の削減と並行して、トライトンブイの運用費の削減が始まり、2012年頃には米国のTAOブイ側でも船舶運用費が削減され、太平洋側のTAO/TRITONブイ観測網の維持の危機に直面します。米国側はデータの回収率が40%以下に低下し、JAMSTEC側は当初15基の展開でしたが8基の展開へと変更するなどして対応しました。
この危機があって国際的には新たな観測システムの構築が期待され、2015年には、TPOS2020というプロジェクトができました。この際、米国側は運用主体が日本の気象庁であるNational Weather Serviceとなっていた事とNOAAの上層部がエルニーニョ現象の現業のよる監視が重要であるという再認識が生まれ、観測は持ち直しています。
一方JAMSTEC側は研究機関による運用であるため、一度削減する方向となった状態を戻すことは容易ではなく削減の一途を辿っています。ただ、世界広しといえども研究機関として20年の長きに渡り長期観測を実施できたのは、JAMSTECだからだと思います。
最後に一言。
これまでのトライトンブイによる長期観測に際し、JAMSTEC内外の多くの方のご協力があり、時に緊急回収などを実施していただき、感謝に絶えません。地球環境が壊れつつある昨今、地球の観測は必要です。
地球の観測のためには、トライトンブイのような係留系という観測を含め、環境に優しく長期に効率よく低価格で続けられる観測が必要です。JAMSTECはそういう観測に挑戦し続けてほしいと思います。
参考
- トライトンブイのデータ
- http://www.jamstec.go.jp/tropicbuoy/