海洋研究の歴史を語る 50周年記念コラム

2021.08.25 UP

初期の日本周辺の深海調査~沖縄トラフ海底熱水活動域調査を例に~

むつ研究所
所長 田中 武男

 私が現在のJAMSTECの前身である海洋科学技術センターに入所したのは、1984年(昭和59年)4月のことでした。東京大学海洋研究所(当時)の指導教官であった奈須紀幸先生と進路の話題をした時、私の方から「(当時全く無名であった)JAMSTECを面白い組織と思っている」旨をお伝えしたところ、日本の海洋開発・海洋研究分野の裾野を広げることに尽力をされていた先生は大変に喜び、すぐに故堀田宏さんと会えるよう手配して頂いたのが、その約1年前のJAMSTEC一般公開の日でした。そしてその時、堀田さんから伺ったのは次のようなことでした。『JAMSTECでは、「しんかい2000」の試験潜航を始めており、近いうちに本格運用を開始する。そして、将来的には米国のアルビン、フランスのノーチールと肩を並べる水深6,000m級の潜水調査船の開発・建造もこの延長の目標になっている。しかし、まずはこの「しんかい2000」でしっかりと成果を出して、“潜水調査船が今後の海洋研究に不可欠なものである“ということを明確に世の中に示す必要がある。そのためにこれから初めて理学系研究員の新採用も考えている。この流れに変更が無ければ、半年後の秋くらいに募集を開始しようと思っているが、その応募条件としては少なくとも学位を持っている(“見込み”含む)ことになるので、まあ頑張って下さい。』ということでした。その“条件”のクリアについては、『非常にシンドイなあ』と思ったのですが、その後、小林和男先生をはじめとする審査の先生方も『コイツを東京大学海洋研究所に残しておくとかえって面倒だ。』と思ったのでしょうか、超大甘で目を瞑って頂いたような感じですかね。なお、小林先生はそのことに多少責任があると思われたのか、その後も大変お世話になり、ご助言などを何度も頂きました。

 さて、私がJAMSTECの存在に関心を持ったのは、「しんかい2000」の建造というよりも、むしろDeep-Towを開発しているということでした。大学院生時代に、米国海軍ではマルチナロービーム測深機を開発し超精密海底地形図を作成していること、スクリップス海洋研究所ではそれをもとにDeep-Towによる広域深海調査を実施しているということを知った時に、初代白鳳丸や淡青丸のPDR(シングルビーム測深機);今の感覚からは非常にワイドな一本の音響ビームで測深をして、ロランC等の双曲線航法による測位データをもとに船上で手作りで海底地形図を作っていた我々の状況と比較して、その差に大いに愕然としていました。そしてその頃、日本にDeep-Towを開発している組織があり、それがJAMSTECであることを知り、とても驚き関心を持っていたからです。

 JAMSTECで配属されたのは誕生直後の深海研究推進室(後の深海研究部)でして、故堀田宏さんが室長をされており、そこにDeep-Towの門馬大和さん、大塚清さん、橋本惇さん達がおられ、私の入所後3年ほどで満澤巨彦さんや藤倉克則さんが合流しました。”鬼の門馬さん“は私を一目見て、『技術開発には屁の役にも立たない』と見抜かれたのでしょう、”比較的暖かい目“で見て戴き、Deep-Towが海の研究に役に立つことをアピールする役目をするように配置してくれました。先にも書きましたが、潜水調査船が役に立つということを具体的に示すということが、深海研究部の最大のミッションであるということは明確に共有されていました。なお、当時の我が国の海の研究コミュニティにおいては、潜水調査船はある種の『ゲテモノ』視されていたのではないかと思います。”真っ当な研究者“は決して使わないという雰囲気でした。アルビンやシアナによる中央海嶺系での深海熱水現象とそれに伴う生物群の発見から既に数年経ていたにも関わらず・・・です。結局のところ、それは、当時、潜航調査に至るまでの事前調査等の詳細な海底情報が圧倒的に少なく、そのような情報へのアクセス手段が無かったことによる偏見と思われました。海洋調査船、Deep-Towそして潜水調査船を一体としたシステムとして保有・運用しようとするJAMSTECがそれら偏見を打開できるはずであるとして、「どんなところをどんな目的でどのように調査すればどんなものが見れるのか」というところから検討が始まり、日本周辺の水深2,000m以浅の興味深い海域をリストアップして、それらの海域の事前調査から始めていったわけです。これはプロジェクト研究『深海調査』として実施され、科学技術庁の深海調査推進委員会の指導のもとに『学術(大学等)』、『地形・地質(海上保安庁および地質調査所)』、『水産(水産庁)』、『海洋技術開発(JAMSTEC)』 の4分野でそれぞれの組織機関の研究・業務の達成に資する潜水調査船等の利用法や関連技術開発を連携・協力して行うというものでした。なお、当時は「しんかい2000」は年間60回潜航(含む試験潜航)を上限として、それら4分野等分で潜航回数を分配して実施していきました。そして具体的には、海底地震・活断層研究が進展するような露頭発見と海底熱水活動現象を発見することが世の中に最も解りやすく示すことができ、その後の潜水調査船の利用・発展に繋がると考えていました。とはいえ、海底噴出の特徴を示す枕状溶岩ですら日本周辺海域で未だ発見・確認できていない時代の話です。誰も100%成功を確信していたわけではありませんでした。

 JAMSTECによる事前調査は、「なつしま」と「かいよう」の2船(どちらも2015年に退役)を使い、Deep-Towによるサイドスキャンソーナーと深海TVカメラによる事前調査、それらのデータをまとめて「しんかい2000」で潜航するという手順で行いました。そしてそれは日本周辺海域の”面白そう“な海域をローラー作戦で調査していくという、とても興味深く楽しい”探検の時代“でした。年間150日前後の海域調査を4-5年継続しました。「しんかい2000」の潜航調査も年間10潜航ほどを数年継続させてもらいました。若かった当時でも体力的にしんどかったのですが、全ての航海を先頭に立って率いた門馬隊長の調査と観測機器に対しての妥協を許さない姿勢には感銘を受けました。先にも書きましたが、測位はロランCが基本(衛星航法は、GPSではなく数十分毎に飛来するNNSSシステムであり、現在のGPSとは比べ物にならないものでした)、地形調査はシングルビームのPDRが主武器、船上で手書きの地形図を作成しながらやったわけで、80年代後半にGPSとマルチナロービームが導入されつつありましたが、それが実質的に調査にフル活用されたのは90年代に入ってからでした)、それにより沖縄トラフの海底熱水地帯をはじめ日本周辺海域の各地で現在も研究・調査・観測が継続されている主だった深海研究観測ポイントの多くを特定することが出来ました。その”門馬探検隊“の一員であったことは今でも”ちょっぴり自慢“です。

 ここから沖縄トラフに話題を絞りますが、海底熱水現象を捉えることは「しんかい2000」を含む「深海調査」プロジェクトの初期の目標であり、それには沖縄トラフが最も可能性が高いであろうということは、関係者の間では共通認識でした。もちろん伊豆・小笠原海域も可能性があり、いずれも“それ”があるとすれば黒鉱タイプに近いものとの見込みは当時からありました。そしてそのために集まったのが、(いずれも当時)地質調査所の中村光一さん、海上保安庁水路部の加藤幸弘さん、東京大学地震研究所の上田誠也先生のご指示のもと早くから参加されていた山野誠さん、そして琉球大学の木村政昭さん達でした。上記の皆さんとはよく連携して、調査や情報交換をしました。また、『海底熱水活動の兆候が見られたらいつでも採水に行くよ』ということで東京大学海洋研究所の酒井均先生、蒲生俊敬さん、まだ大学院生だった石橋純一郎さん達が特製の採水器を準備して待機しているという関係が自然に出来上がっていったわけです。

 なお、当初は基本資料としては海上保安庁水路部の20万分の1海底地形図であったのですが、「日本周辺の大陸棚確定」の初期ステージとして、測量船「拓洋」にシービームが導入され、沖縄トラフが真っ先に調査されました。その結果として、非公表のシービームデータを事前調査の参考に利用できる環境に至ったことが非常に大きかったです。JAMSTECの調査船「かいよう」のシービームの運用が開始されたのは1986年頃でしたがフル稼働にはなかなか至っていませんでした。沖縄トラフの基本作戦は水路部のシービーム地形図を軸に、併せて「なつしま」の職人技的な操船技術を基にPDRとDeep-Towによるソーナー、カメラで行われたのが実態でした。シービーム地形図で沖縄トラフの中軸にある伊平屋小海嶺およびその周辺の詳細な地形が明らかとなり、狙いの中心はここだと設定し、1985年から「なつしま」による事前調査とそれをもとに「しんかい2000」による潜水調査が実施されました。なお、84年、85年と日本周辺の様々な海域の海底をDeep-Towカメラでずーっと見ていると海域毎の特徴等が何となくわかってきて、場所を事前に聞かなくても深海映像のビデオを見ただけで日本周辺のどのあたりかというのがだんだんと判別できるくらいまでになっていたのですが、沖縄トラフの伊平屋海域はやはり『何かある!』という雰囲気プンプンな海域でした。1986年7月に集中した潜水調査が行われました。そして伊平屋小海嶺の東方「なつしま海丘」において、琉球大学の加藤祐三さんの潜水調査時に海丘の頂上部で低温型熱水マウンドが発見されました(写真-1)。これが西太平洋背弧海盆における海底熱水現象の発見の端緒となり、EOS/AGU(アメリカ地球物理学連合のニュース誌)にも紹介されました。多くの方々は、沖縄トラフでの海底熱水活動探査の最初のマイルストーンは、伊是名海穴でのブラックスモーカー発見(1989年6月)であろうと思われているかと思いますが、私自身はこの「なつしま海丘」での低温型熱水マウンドの発見のほうの印象が遥かに大きいです。これによって、「しんかい2000」を含めた深海調査システムが良く機能することを示すことができたと思っており、「しんかい6500」の正式建造ゴーサインへの最後のピースを嵌め込んだといわれています。

写真1

写真-1:伊平屋小海嶺東方の「なつしま海丘」の低温型熱水マウンド(しんかい2000 #231潜航; 水深1,530m 1986年7月4日)

 更に高温型の熱水活動の探索については、我々JAMSTECは伊平屋海域を軸に調査を継続していきました。一方、地質調査所の中村さん達や水路部の加藤さん達はシービーム地形図で見られた特異で新鮮なカルデラ様の地形を示す伊是名海穴周辺の調査を集中して実施しました。地質調査所が国際共同調査を実施したドイツの調査船ゾンネによる広域ドレッジにより、新鮮な塊状硫化鉱が採取され、1989年の潜水調査へとつながっていきました。この年は6-7月の2か月間にわたり前半に伊是名海域、後半に伊平屋海域の潜水調査が計画されました。そしてその前半の伊是名海穴において、地質調査所中村さんの潜水調査の最後に遂にブラックスモーカーが発見されました。これは、すぐに全国ニュースにもなりました。前半の行動にも乗船していた東京大学海洋研究所の酒井先生達も潜水船搭載型の採水器を開発用意して、熱水の採取を試みました。しかし、熱水マウンドの微細形状や潜水船への搭載位置等の関係から純粋な熱水の採水は成功しませんでした。また、温度計測も完全ではありませんでした。なお、この前半行動で伊是名海域の海底から液胞状のモノが湧き出ている現象がカメラでとらえられました。ガスの噴出とは明らかに異なる現象でした。このように前半行動はブラックスモーカーの発見という大きな成果を挙げたのですが、上記のようにまだ成し遂げていない重要事項が残りました。当初計画では後半の行動は伊平屋海域を中心に行う予定でしたが、急遽それを変更し、伊是名海穴で噴出する熱水の温度を正確に計測し、熱水そのものを採水し、併せて“奇妙な液胞”の採取とブラックスモーカー周辺の熱水活動微地形を含んだ鳥観図の作成をすることとなりました。

 熱水採水器の改良は、那覇港着岸中の短期間に、東京大学海洋研究所の蒲生さんとともに「しんかいチーム」の福井さん、今井さん達、そして「なつしま」の機関の皆さんが総出で工夫・協力して改造・整備されました。また、熱水等が採取された場合に「なつしま」船上での採水処理等を万全とするために乗船研究者の調整が行われました。結果として、乗船定員の関係から比較的「しんかい」乗船の経験が多い私が、「しんかい」に4回連続して乗船し、その他の方々は熱水等サンプル処理に万全に対応できる組み合わせとなりました。

 最初の潜水調査で改良型熱水採水システムはうまく動き、海底での熱水採水と温度計測には成功しました。しかし、採取した熱水中のガス成分が予想以上に多かったため内圧が高まりすぎ、浮上中に液体部分が逃げてしまい採水器内にガス成分しか残っていない状況となってしまいました。次の潜航では採水器の内圧の耐性を強化し、再度採水を試み、遂に熱水成分の採水に成功しました。なお第1回目のダイブの時のパイロットは鈴木さんと広瀬さんのコンビでしたが、ブラックスモーカーの観察中に底層流にあおられたのか、「しんかい」船体がブラックスモーカーに触ってしまい熱水マウンドを壊してしまいました(写真-2)。この時、熱水マウンドを観察していた私の目の前のガラス窓に300°Cを超す熱水が直接かかるという状況となり、私は、一瞬、「死ぬ~!」と思い、「肝を冷やした!」というか「熱くした!」ことがありました。「しんかい」が「なつしま」船上に揚収された後にFRP(繊維強化プラスチック)でできた保護カバーが焼けて変色しているのを見たとき、「二度と広瀬・鈴木とは一緒に仕事をしたくない!」と思いましたが、以降、いくつかの部署で二人とは一緒に仕事をしており、とりわけ鈴木さんとは今でもむつ研究所で机を並べている状況です。

写真2

写真-2:伊是名海穴内東北尾根のブラックスモーカー。しんかい2000の船体に接触し、チムニーの一部が破壊 (しんかい2000 #422潜航;水深1,333m 1989年7月12日)

 第3回目の潜航では『奇妙な液胞』の採取を試みました。採取器は、東京大学海洋研究所が海底面直上の海水を精密採取するために持ち込んだアクリル筒採水器で、トリガーを外すとその下側の蓋がゴムの力で閉まるという簡単な仕組みのものを用いました。噴出地点はブラックスモーカーの尾根を下った海穴の平坦面。少し固結したような海底の小孔から粘性のありそうな液胞がいくつも連続してポワンポワンと上がっています。見ていて飽きないというか非常に面白い現象で、それまで見たことのないものでした。アクリル筒採水器によってこの液胞を採取してもらったのですが、自由度があまり多くない「しんかい2000」のマニュピレータを上手に操り採取してもらいました。その時びっくりしたのは、この液胞をアクリル筒内に採取していったら、一つ一つの液胞は統合して大きな液胞になるだろうと私が思っていたところ、一つ一つの液胞はそのままの状態で重なっていき、まるでブドウの房のように積み重なっていったことでした。これは非常に面白いと思いまして、普段の潜航では潜水船が浮上するときはビデオ録画を終了してライトも完全に落とすのですが、ビデオカメラをこのアクリル筒採水器に向けて浮上中の水温・圧力変化でどのように変化するか記録することを試みました。海底でフッと思ったこの発想は、潜水調査をこれまで何度も経験させて戴いていたことへのひとつの恩返しに繋がったと思っています。なお、このアクリル筒採水器内の試料は、潜水船の上昇に伴い様々に変化し、最終的に減圧・気化して、浮上直前にとうとう自身の浮力で潜水船を離れてしまったのですが、「しんかい」船内から「なつしま」に水中無線でこの容器が浮き上がってしまう可能性があることを伝え、もしもの場合には回収を是非やってほしい旨依頼したところ、極めて幸いなことに久しぶりに潜水船揚収のためのダイバーを務めることとしていた井田さんによって洋上で発見・回収されました。この試料と上昇中の変化映像、そして同時に計測されていたCTD(Conductivity Temperature Depth profiler)記録が後に「熱水海域でのCO2ハイドレートの噴出現象」ということでSCIENCE誌の論文になりました。そしてそれはその後『CO2海底下貯留構想』へと繋がっています。

 これら一連の潜航を終え、那覇港に戻る船上では、当初の目的をほぼ果たしたと酒井先生や蒲生さん達は採水処理に追われながらも大満足でした。私は、来る「しんかい6500」の時代は、もう“探査の時代”ではなく、“海底における精密計測”や“同一地点の繰り返し潜航調査”さらには“長期計測装置等の設置”の時代になっていくんだろうなあと深海調査のフェーズが変わっていく予感を思ったわけです。
 その後、深海研究部のDeep-Towを中心とした「深海調査システム」は、日本海に沈んだロシアのタンカー(ナホトカ号)事故の状況調査、学童疎開船「対馬丸」調査、そしてH2ロケットエンジンの探査・発見等にも使われ、JAMSTECの深海探査能力を広く国民のみなさまに伝えることができました。そしてこのDeep-Towの技術は、長期観測ステーションの中核技術であり、地震・津波観測監視システム;DONETへと進化していきました。