西部北太平洋のマーチンカーブ=光学的手法による沈降粒子鉛直変化率の数値化=
(文部科学省科学研究費補助金 基盤研究Aプロジェクト2018-2022)

文部科学省科学研究費補助金 基盤研究A「西部北太平洋のマーチンカーブ=光学的手法による沈降粒子鉛直変化率の数値化=」(2018-2022)のウェブサイトを開設しました。
本サイトでは本研究の目的と背景、研究手法と研究体制、および主な研究成果を随時公開していきます。

概要

海洋が大気中で増加する二酸化炭素(CO2)を吸収するメカニズムの一つが“生物ポンプ”です。“生物ポンプ”能力の効率を知るためには、海洋植物プランクトンの光合成で粒状態となったCO2が海洋内部のどの深度まで鉛直輸送されるのか、換言すれば粒状有機炭素(POC)フラックスの水深に伴う減少率(鉛直変化率)を定量化することが重要です。しかしこの鉛直変化率の経験式は1980年代後期に提案されたものが現在も使用されており、時空間的違いの検証は十分に行われてきませんでした。本研究は従来のセジメントトラップ実験による観測手法に加え、光学的手法により得られたデータを統計解析し、さらに数値シミュレーションによる再現で検証することで、西部北太平洋亜寒帯海域と亜熱帯海域におけるPOCフラックスの鉛直変化率の経験式(マーチンカーブ)を提案するものであります。

北極海200mにおける様々な季節のマリンスノー(JAMSTEC小野寺丈尚太郎博士提供)

研究目的、研究方法

1.1 本研究の学術的背景、研究課題の核心をなす学術的「問い」

生物ポンプ

海洋は人類が放出する二酸化炭素(CO2)の約35%を吸収しています(IPCC 2013)。海洋が大気中で増加するCO2を吸収するメカニズムには、海洋植物プランクトンの光合成を皮切りに、溶存態(溶存有機炭素:DOC)として海水の移流・拡散により、もしくは粒状態(粒状有機炭素:POC)として沈降粒子により、海洋内部に鉛直輸送される“生物ポンプ”があります。生物ポンプのおかげで毎年人類が放出するCO2の約5倍量が海洋内部に輸送されています(IPCC 2013)。また生物ポンプというメカニズムがなければ、産業革命以前の大気中CO2濃度は実際の2倍程度であったという試算結果もあります(Volk and Hoffert 1985)。現在、地球環境変動に伴う海洋の温暖化、酸性化、低塩分化、貧酸素化などの複合的ストレス(マルチストレッサー)によりこの生物ポンプ能力、換言すれば海洋のCO2吸収能力が将来的に変化することが懸念されています(Bopp et al. 2013)。

鉛直変化率の経験式(マーチンカーブ)

通常、沈降粒子中POCは海底に向かって海中を重力沈降する際に化学的・生物学的・物理学的作用により減衰していきます。より深くまでより多くのPOCが輸送されると、海洋での滞留時間が長くなるため、大気中CO2濃度の低下に貢献することになります。従って“生物ポンプ”の効率を把握するためには、POCが鉛直輸送時、特にトワイライトゾーン1)と呼ばれる水深100m-1000m間を、どのように減衰していくか、すなわち鉛直変化率を定量化することが重要となります。1980年代、鉛直変化率を示す経験式が数多く提案されましたが(Honda et al.1997に紹介)、その中で米国のジョン.H.マーチン博士2)が提案した経験式(図1:以下マーチンカーブ)がその後観測研究者、数値モデル研究者に頻繁に用いられるようになってきました。しかし、沈降粒子捕集装置(セジメントトラップ)による深度別POC測定により、マーチンカーブが海域によって大きく異なることが指摘され、例えば珪藻が優占する西部北太平洋亜寒帯域のPOC鉛直変化率は小さい、換言すると同海域のPOC輸送効率が高い可能性が指摘されてきました(Honda et al. 2002, Buesseler et al. 2007)。

図1 POC鉛直変化率(マーチンカーブ)

ただしセジメントトラップによる観測は、セジメントトラップ、特に水深1000m以浅に設置されたセジメントトラップの沈降粒子捕集効率が必ずしも100%ではないために、その海域に適用できる信頼できるマーチンカーブが提案されていないのが現状です。

1) トワイライトゾーン

日本語では薄暮(はくぼ)層、薄明(はくめい)層と呼ばれている水深100-1000mぐらいの中層。植物が光合成をするほどの光量はないが、うっすらと明るい層。

2) J. マーチン博士
  John H. Martin (1935-1993)(米国 海洋学者)

マーチン博士は1980年代に実施された海洋の炭素循環研究プロジェクトVERTEX(Vertical Transport and Exchange)において、北東部北太平洋アラスカ湾の定点Station Pにおいて異なる水深の沈降粒子(粒状態有機炭素)を観測し、その鉛直変化を数式化しました(Martin et al. : VERTEX: carbon cycling in the Northeast Pacific, Deep-Sea Res., 34, 267–285, 1987)。これがマーチンカーブです。一方、マーチン博士は溶存鉄が植物プランクトンにとって重要な栄養分であることを提案したことで有名です。マーチン博士は窒素、リンなどの栄養塩があるにもかかわらず、植物プランクトンが成長できない(海洋低次生産が低い)海域(HNLC海域:High-Nutrient Low-Chlorophyll海域)では鉄分が不足していることを、鉄添加実験で証明しました(Martin and Fitzwater: Iron-deficiency limits phytoplankton growth in the Northeast Pacific Subarctic. Nature 331, 341-343, 1988)。


また最終氷期最寒期(LGM)に大気中二酸化炭素が低下していたのは、大陸から海洋へ供給された鉄により海洋低次生産が増加したためであるとの鉄仮説を提案しました(Martin: Glacial-Interglacial CO2 change: the iron hypothesis. Paleoceanography 5, 1, 1-13, 1990)。博士が会議中に発言した「Give me a half tanker of iron and I will give you an Ice Age」が有名です。

1.2 本研究の目的および学術的独自性と創造性

そこで本研究では、従来のセジメントトラップによる観測ではなく、光学的手法を用いて西部北太平洋の亜寒帯、亜熱帯海域におけるマーチンカーブを提案します。西部北太平洋亜寒帯、亜熱帯海域にはそれぞれの海域の生物地球化学的特徴を時系列的に把握するために観測定点が設けられ(観測点K2およびKEO)、様々な計測機器がとりつけられた係留系が、海洋研究開発機構開発機構(以下JAMSTEC)、および米国海洋大気庁太平洋海洋環境研究所(以下NOAA-PMEL)により設置されています(亜寒帯:K2ハイブリッド係留系、亜熱帯:KEO表層ブイ係留系(KEO HP))。これらの係留系の複数層に後方散乱計を設置し、後方散乱強度の鉛直分布の時系列的変化を観測します。また両海域には2017年度から後方散乱計を搭載した自動昇降型漂流フロート(BGC-ARGO)も投入されているのでこれらの観測データの解析も併せて実施します。さらにK2, KEOに設置されている時系列式セジメントトラップによる捕集された沈降粒子の捕集量や化学組成の季節変動データ、および人工衛星で観測・推定される植物プランクトン量・基礎生産力・POC量の季節変動データを解析します。そしてそれぞれの観測データの時空間データが再現できるような数値モデルを構築することで、それぞれの海域の鉛直変化率を表す経験式(マーチンカーブ)を提案します。

1.3 本研究で何をどこまで明らかにしようとしているのか

西部北太平洋亜寒帯・亜熱帯海域に適用できるマーチンカーブを提案します。さらに両海域でマーチンカーブが異なる場合は、その要因(海洋物理・化学環境、沈降速度、化学組成、動物プランクトンによる捕食圧など)について考察します。

図2 海洋観測概念図と予想される後方散乱強度(BS)/セジメントトラップ(ST)データ時空間変動パターン

研究方法

2018年度

観測(カッコ内は主要担当者)

1) 後方散乱計の購入・性能試験(本多)
耐圧水深1000mの後方散乱計を複数台購入した後、秋〜冬に計画されている白鳳丸海洋観測で試験運転を行います。船上から吊りおろし、得られたデータと現場濾過などで観測されたPOC, 粒状無機炭素(PIC)、生物オパール、またプランクトンネットで観測された動物プランクトン、植物プランクトンと比較することで、後方散乱強度と粒状懸濁・沈降物質の質、量の関係性について考察します。

2) 水中ビデオカメラの開発・性能試験(小栗)
耐圧水深200m程度の水中カメラを開発します。開発後は、後方散乱計と同様に、試験運転(海洋観測中に試験投入し、得られたデータと現場濾過などで観測されたPOC, 粒状無機炭素(PIC)、生物オパール、またプランクトンネットで観測された動物プランクトン、植物プランクトンと比較します。さらにマトラボ(MATLAB)等の数値解析ソフトウエアを応用し、画像解析手法を検討します。

3) セジメントトラップ実験ほか海洋観測・衛星観測(本多、松本、藤木(連携)、Siswanto)
夏に実施されるKEO, K2での海洋観測航海(海洋地球観測船「みらい」航海)で、現在設置中の時系列式セジメントトラップを回収、再設置します。また現場濾過器により同時期の海中の粒状物質の鉛直分布を観測します。また人工衛星で観測される植物量・群集組成、および既存のアルゴリズムで計算される海洋表層POCおよび基礎生産力(PP)を実海域観測データと比較しその有効性を検証します。一方、本研究に必要となるK2, KEO係留系データの取得を行います。

4) BGC-ARGOデータの解析(藤木(連携)、井上(連携))
平成29年度、K2, KEO付近に投入されたBGC-ARGOから逐次送信されてくる後方散乱強度の時空間変動データを解析し、これまで観測されてきた両海域における沈降粒子の時空間変動パターンから後方散乱強度の時空間変動パターンの意味を検証します。

数値シミュレーション(笹井)

これまで両海域におけるセジメントトラップ実験の結果から得られた沈降粒子の時空間変動を再現できるような適切なマーチンカーブ、沈降速度などを検討します

2019年度

観測

1) 後方散乱計の設置・第1期観測開始
夏に予定されている航海で、再度後方散乱計の性能試験を実施した後、KEO, K2係留系の水深200m, 400 m, 700mに後方散乱計を設置し、時系列観測を開始します。

2) 水中ビデオカメラの設置・第1期観測開始
夏に予定されている航海で、再度後方散乱計の性能試験を実施した後、KEO, K2係留系の水深200mに水中ビデオカメラを設置し観測を開始します。

3) セジメントトラップ実験ほか海洋観測・衛星観測
引き続きセジメントトラップ実験他海洋観測および人工衛星データ解析を行います。

4) BGC-ARGOデータの解析
引き続きBGC-ARGOから逐次送信されてくる後方散乱強度の時空間変動データを解析し、昨年度から同時期に得られたK2, KEO両海域における沈降粒子の時空間変動パターンと後方散乱強度の時空間変動パターンを比較します。

数値シミュレーション

引き続き、セジメントトラップ実験の結果から得られた沈降粒子の時空間変動を再現できるような適切なマーチンカーブ、沈降速度などを検討します。

2020年度

観測

1) 後方散乱計の回収・データ解析・整備
夏に予定されている航海で、KEO, K2係留系の後方散乱計を回収する。航海中に再度性能試験を行います。陸上に持ち帰り、得られたデータの解析を行います。並行して洗浄・キャリブレーション等整備を行います。

2) 水中ビデオカメラの回収・データ解析・整備
夏に予定されている航海で、KEO, K2係留系の水中ビデオカメラを回収します。航海中に再度性能試験を行います。陸上に持ち帰り、得られたデータの解析を行います。並行して洗浄・キャリブレーション等整備を行います。

3) セジメントトラップ実験ほか海洋観測・衛星観測
引き続きセジメントトラップ実験他海洋観測および人工衛星データ解析を行います。

4) BGC-ARGOデータの解析
(もしもBGC-ARGOが生きていれば)引き続きBGC-ARGOから逐次送信されてくる後方散乱強度の時空間変動データを解析します。

数値シミュレーション

後方散乱計時系列解析データの結果を再現できるような適切なマーチンカーブ、沈降速度などを検討します

2021年度

観測

1) 後方散乱計の設置・第2期観測開始
夏に予定されている航海で、再度後方散乱計の性能試験を実施した後、KEO, K2係留系の水深200m, 400m, 700mに後方散乱計を設置し、第2期時系列観測を開始します。

2) 水中ビデオカメラの設置・第2期観測開始
夏に予定されている航海で、再度後方散乱計の性能試験を実施した後、KEO, K2係留系の水深200mに水中ビデオカメラを設置し第2期時系列観測を開始します。

3) セジメントトラップ実験ほか海洋観測・衛星観測
引き続きセジメントトラップ実験他海洋観測および人工衛星データ解析を行います。

数値シミュレーション

2022年度(最終年度)

観測

1) 後方散乱計の回収・データ解析・整備
夏に予定されている航海で、KEO, K2係留系の後方散乱計を回収する。航海中に再度性能試験を行う。陸上に持ち帰り、得られたデータの解析を行います。並行して洗浄・キャリブレーション等整備を行います。

2) 水中ビデオカメラの回収・データ解析・整備
夏に予定されている航海で、KEO, K2係留系の水中ビデオカメラを回収する。航海中に再度性能試験を行います。陸上に持ち帰り、得られたデータの解析を行う。並行して洗浄・キャリブレーション等整備を行います。

3) セジメントトラップ実験ほか海洋観測・衛星観測
引き続きセジメントトラップ実験他海洋観測および人工衛星データ解析を行います。

数値シミュレーション

これまでに得られた後方散乱計/セジメントトラップ時系列解析データの結果を再現できるような適切なマーチンカーブ、沈降速度などを提案します。

図3 研究計画

本研究の着想に至った経緯など

本研究の着想に至った経緯

西部北太平洋亜寒帯・亜熱帯海域生物ポンプ能力を評価するため同海域に適用できるマーチンカーブの提案が試みられてきましたが、従来のセジメントトラップ実験だけでは信頼できるマーチンカーブの提案が困難でありました。そのような状況の中、西部北太平洋亜寒帯・亜熱帯海域の定点(それぞれK2, KEO)付近に、後方散乱強度の鉛直変化を時系列的に観測するBGC-ARGOフロートが2017年度に放流され、光学的手法によるマーチンカーブの提案の可能性が生まれました。しかしこれらは“ラグランジュ的観測”、つまり海水の流れとともに漂流するため、K2, KEOで測定されている様々な生物地球化学的・海洋物理学的時系列データの直接比較が困難であります。そこでこれらのデータの活用が可能な定点での後方散乱強度の鉛直変化観測(オイラー的観測)が併せて必要であると考えました。

関連する国内外の研究動向と本研究の位置付け

21世紀の海洋観測手法のブレークスルーとなったのが自動昇降式水温塩分測定漂流フロート(通称ARGOフロート)です。世界中に約3500台のフロートが投入され、海洋の微細構造・詳細流動パターンが明らかとなってきました。

一方、酸素や栄養塩や植物色素(chl-a)などの生物地球化学成分測定センサーを搭載したARGOフロート(BGC-ARGO)も開発され、様々な海域に投入され観測が開始されています。後方散乱強度測定もその一つです。例えばBoss et al (2008)は北大西洋に後方散乱計搭載のフロート投入し、約3年間の後方散乱強度の時系列鉛直プロファイルの観測に成功しています(図4)。しかし、この論文でもそれ以降の論文でも粒子の鉛直変化率に関する定量的な報告はほとんど行われておらず、西部北太平洋にいたっては皆無です。なお水中カメラなど光学的手法による海中粒子の観測は、国際的な深海観測研究計画DOOS (Deep Ocean Observation Strategy)において、今後の観測手法として強く推奨されています。本観測研究を実施するK2, KEOは国際的定点観測ネットワークOceanSITES(www.oceansites.org) の西部北太平洋における拠点です。また本観測研究によるマーチンカーブの提案は、米国NASAが人工衛星データから海面から海底まで海中POC粒子の輸送過程を把握するプログラムEXPORTS(www.oceanexports.org)に大きく貢献するものであります。

図4 北大西洋におけるフロートによる後方散乱強度の時系列鉛直プロファイルの測定例(Boss et al.2008)