研究の背景
(1)海洋の生物ポンプ
海洋は大気中二酸化炭素(CO2)の約60 倍のCO2 を貯蔵しています。近年では人類活動により放出された二酸化炭素の約30%強を吸収しており、海洋が大気中のCO2 濃度をコントロールしているといっても過言ではありません。海洋のCO2 吸収メカニズムとして、海洋植物プランクトンの光合成(基礎生産)を皮切りに一連の食物連鎖を経て海洋内に粒状物(マリンスノー)として輸送されるメカニズム(生物ポンプ)があります。海洋の生物ポンプは年間約11GT(ギガトン)のCO2 を海洋内へ輸送しています(IPCC AR4, 2007)。もしも海洋の生物ポンプがなければ産業革命前の大気中CO2 濃度は400ppm 以上であった(実際は280ppm )との試算もあり(Sarmiento and Toggweiler, Nature 308, 1984)海洋のCO2 吸収能力において極めて重要なメカニズムであります。中でも西部北太平洋の生物ポンプは大気CO2 吸収に多大に貢献していることが同海域の時系列観測で明らかになってきました(Honda, J. Oceanogr. 59, 2003)。しかし近年は同海域の植物プランクトン優占種“ケイ藻”が減少し(Watanabe et al., J. Oceanogr. 65,2007)生物ポンプ能力の低下の可能性が報告されています(Ono et al., Geophys. Res. Lett. 22, 2002)。
(2)海洋の生物ポンプにおける大気塵(エアロゾル)の役割
この生物ポンプ能力が陸域から輸送される大気塵(エアロゾル)の供給により活性化する可能性が指摘されてきました。例えば黒潮域、日本海で黄砂現象の後に植物プランクトンが増加した(Jo et al., Geophys. Res. Lett. 34, 2007)、西部北太平洋で沈降粒子量(マリンスノー量)が中国大陸の砂塵嵐の発生頻度と相関がある( Yuan and Zhang, Geophysical Research Letters 33. 2006)等です。前者はエアロゾルに含まれる主要栄養分(リン酸や硝酸)や微量栄養分(鉄)が海水に溶出し植物プランクトンが利用したため、後者は有機物に富む比重の小さいマリンスノーに比重の大きい陸起源物質が付着、錘(おもり、あるいはバラスト)となりマリンスノー量が増加したためと推定されています。これらのメカニズムは最終氷期に大気中CO2 濃度が約80ppm低かった(約200ppm)のは海洋生物ポンプが活発であったため、という仮説の根拠にもなっています(Martin, Paleoceanogr. 5, 1990; Ittekot, EOS 72,1991)。近年では様々なHNLC(High Nutirent Low Chlorophyll)海域で鉄散布実験が実施され鉄供給による植物プランクトン増加が観測されてきました(西部北太平洋の場合はTsuda et al., Science 300, 2003)。また火山噴火噴出物が海洋の生物生産力を高めた観測研究例もあります(Uematsu et al. GRL 31, 2004)。しかし自然界のエアロゾルからどの程度鉄や栄養塩が溶出し植物プランクトンに利用されるのか?植物プランクトン量と同様にマリンスノー量も増加するのか?という点については未だに解明されていません。

西部北太平洋観測定点K2 の水深約5000mにおける有機炭素フラックスとMODIS で観測されたエアロゾル光学的厚みの時系列変化(本多、金谷、未発表データ)。両者は相関があるのか?年々変動の原因は?沈降粒子/エアロゾルの詳細な解析が必要。
(3)エアロゾル供給量の変化に伴う生物ポンプの変化予測
西部北太平洋はアジア大陸の砂漠や黄河起源のエアロゾル供給量が多い海域です(Jickells et al., Science 307, 2005)。代表的なエアロゾルである黄砂の研究はこれまでも多くの研究が実施されてきました(例えば岩坂他編「黄砂」、古今書、2009)。しかし黄砂他自然発生したエアロゾルが西部北太平洋の生物ポンプにどのように影響しているのか?という観点の研究例は極めて少ないです。現在、地球温暖化に伴い乾燥地帯/湿地地帯の地理分布変化、気象変化、そして人類活動による土地利用変化が報告されており、今後はアジア大陸からのエアロゾルの西部北太平洋への輸送量、輸送範囲が大きく変化することも考えられます。そのため生物ポンプにおけるエアロゾルの役割を明確にしておくことが急務でです。また近年では東アジア都市部から発生する産業起源エアロゾル(硫酸塩、硝酸塩、黒色炭素等)の越境汚染が報告されています(Kanaya et al., Jpn. J. Atmos. Environ. in press)。これらが海洋へ供給された場合の生物ポンプへの影響も考慮すべき時期となっています。

(Jickells et al., 2005 を改造)