国際連携の下、海洋地球研究船「みらい」も参加した北極海広域観測プロジェクト Synoptic Arctic Survey (SAS)※1 において、太平洋側北極海のチュクチ海台で低酸素化・酸性化が進んだ海水の広がりを初めて捉えた。さらに、北極海の海氷減少に伴う海の流れの強化により、これまでシベリア沿岸域でしか見られなかった低酸素化・酸性化の進んだ海水が公海域のチュクチ海台まで運ばれてくることが明らかになった。
近年の海の流れの変化によりシベリア沿岸域の低酸素水がチュクチ海台まで運ばれやすくなっていることが、観測のみならず数値モデルでも確認された。さらにモデルからは、2017年以降チュクチ海台に低酸素水が運ばれやすくなっているものの、流れの変動に合わせて断続的に運ばれてくることが分かった。
チュクチ海台は北極海公海の中で最も早く低酸素化・酸性化が進んでいることから、今後の海洋環境の変化と生態系への影響が危惧される。この海域の環境・生態系の継続的な観測 (モニタリング)は、中央北極海 (公海) 全体の環境・生態系変動を予測する上で重要であり、ひいては2021年6月に発効した「中央北極海における規制されていない公海漁業を防止するための協定」 (以下、中央北極海漁業協定 ※2 という。)に関わる政策立案にも資すると考えられる。
Synoptic Arctic Survey (SAS)
SASは、2020年~2022年に国際連携により実施された北極海広域観測プロジェクトである。「みらい」は太平洋側北極海の海氷が存在しない海域の観測を担当した。その目的は、北極海での海洋物理学的な構造や循環場、炭素や窒素など化学物質の収支や海洋酸性化の進行状況、海洋生物の生産力や生態系の変化などを明らかにすることができる統合的な海洋観測データセットを作成することにある。
https://synopticarcticsurvey.w.uib.no/
なお本論文は、SASによる初めての研究成果としても意義深い論文である。
中央北極海漁業協定
中央北極海は夏季でも海氷に覆われており観測が困難であるため、海洋環境や生態系の現状、およびそれらの変動についてはあまり分かっていない。今後、海氷が今よりもさらに後退すれば、中央北極海 (公海) でも漁業が行われる可能性がある。しかし、海洋環境・生態系のアセスメントなど十分になされないまま、漁業が規制されることなく行われることになれば、海洋環境や生態系および水産資源への影響が懸念される。このため、この海域の環境・生態系を保護するのに十分な知識を蓄積し、さらには水産資源の保存・持続可能な利用を目的として、北極海沿岸5か国 (米国、カナダ、ロシア、ノルウェー、デンマーク) に主要な漁業関心国・機関(日本、中国、韓国、アイスランド、EU)を加えた全10か国・機関の間で交渉が進められ、「中央北極海における規制されていない公海漁業を防止するための協定」 (中央北極海漁業協定) が 2021年6月に発効した。この協定の下、準備期間を経て2024年から中央北極海の水産資源を含む本格的な科学調査が10年以上の年月をかけて進められる予定である。
国立研究開発法人海洋研究開発機構(理事長 大和裕幸、以下「JAMSTEC」という。)地球環境部門 北極環境変動総合研究センター 北極海洋環境研究グループの西野茂人主任研究員らは、韓国極地研究所およびカナダ海洋科学研究所と連携して北極海広域観測プロジェクト SASの下、2020年に海洋地球研究船「みらい」、韓国砕氷船「アラオン」、およびカナダ沿岸警備隊砕氷船「ルイサンローラン」による太平洋側北極海 (図1)の観測を実施しました。「みらい」の観測では、国立大学法人筑波大学および国立大学法人東京海洋大学と共同で、酸素飽和度や酸性化の指標となる炭酸カルシウム飽和度※3 の測定を行いました。その結果、北極沿岸域から遠く離れたチュクチ海台という場所で、これまでの観測値を大きく下回る低酸素 (酸素飽和度50%以下)かつ酸性化が進んだ (炭酸カルシウム未飽和)海水を発見しました。チュクチ海台周辺は太平洋側北極海の公海に位置する比較的浅い海域であるため、今後温暖化と海氷減少がさらに進んで生物生産が活発になれば、様々な国が漁業活動を行う可能性があります。この海域でこれまで見られなかった低酸素化・酸性化が起きたことは、水産資源を育み得る生態系への脅威となりかねません。
今回初めて観測されたチュクチ海台での低酸素化・酸性化の原因を探るべく、日本の「みらい」および韓国とカナダの砕氷船によりSASの下に取得されたデータを統合して、より広域での解析を行いました。その結果、大西洋起源水と太平洋起源水がチュクチ海台付近でぶつかり合い、北向きの強い流れが形成されることが明らかになりました (図1)。この流れが、これまでシベリア沿岸域でしか見られなかった低酸素かつ酸性化した海水を公海域のチュクチ海台まで運んでいると考えられます (図2)。太平洋起源水はもともとチュクチ海台を越えて西側の海域まで多く存在していたのですが、より西側から大西洋起源水を運んでくる海洋循環が近年の海氷減少に伴い強まったため、勢力 (割合)を増した大西洋起源水が太平洋起源水をチュクチ海台へと押しやったのです。
シベリア沿岸では、海岸浸食や永久凍土の融解により有機物の供給が増え、その有機物が分解されることにより低酸素化・酸性化が進行していることが別の研究から分かっています。本研究は、そのような海水が今後益々チュクチ海台周辺の漁業が行われる可能性のある海域に運ばれてくることを示唆しています (図2)。今後も当該海域の観測を推し進めることで、2021年6月に発効した中央北極海漁業協定に関わる資源管理や政策提言に貢献することが期待されます。
本成果は、「Nature Communications」に11月2日付け(日本時間)で掲載されました。なお、本研究は、文部科学省の「北極域研究加速プロジェクト (ArCS Ⅱ)」の支援を受けて実施されたものです。
Atlantic-origin water extension into the Pacific Arctic induced an anomalous biogeochemical event
炭酸カルシウム飽和度
海水中に炭酸イオンが十分にある (炭酸カルシウムに対して過飽和状態にある)のか、それとも炭酸イオンが不足していて炭酸カルシウムが溶けやすい (未飽和な)状態にあるのかの指標で、Ωで表される。Ωが1よりも大きな値の場合は、海水中の炭酸カルシウムは過飽和状態で炭酸カルシウムを殻に持つ生物にとって住みよい環境にあるといえる。しかし、海洋の酸性化が進むと中和のため海水中の炭酸イオンが消費され Ωが低下する。Ωが1よりも小さな値となると、海水中の炭酸カルシウムは未飽和となり、炭酸カルシウムを殻に持つ生物が住みにくい環境であることを示す。
北極域は地球温暖化の影響が最も顕著に現れる場所のひとつです。温暖化は北極海の海氷減少を引き起こし、海氷減少域で海の温暖化や淡水化、貧栄養化、酸性化などを進行させ、生態系にも影響を及ぼしていることが報告されています1。そのような海洋環境・生態系の変動を北極海全体で捉え、将来予測に資するためのベースとなるデータセットの構築を目的とし、これまで北極海では行われてこなかった複数船舶による広域の高精度観測が国際連携の下、SASとして実施されました。当初は単一年の同時期に全北極海をカバーする観測を行う予定でしたが、コロナ禍でいくつもの国の航海が中止・縮小となりました。そのような中、日本・韓国・カナダは 2020年にそれぞれ自国の船で北極航海を実施し、3船で太平洋側北極海の広い範囲をカバーする観測を行うことができました (図1)。SASは、その後、2021年、2022年と続けられ、3年間かけて北極海全体に及ぶ観測を実施し、プロジェクトを終了しました。
SASの観測期間の 1年目にあたる 2020年の「みらい」北極航海では、複数の海水が混在するチュクチ海台周辺海域の観測を行いました。そこはまた、北極海の公海に位置する比較的浅い海域であるため、今後温暖化と海氷減少がさらに進めば、様々な国が漁業活動を行う可能性があります。このため、2021年6月に発効した中央北極海漁業協定でも注目されている海域です。今後、協定下の科学調査も進められ、それらをもとに資源管理や生態系保護などに関わる政策が決定されていくでしょう。この海域の調査は、海洋環境・生態系変動に関わる問題だけでなく、社会的・経済的・政策的な側面にとっても重要なのです。
本研究では、2020年「みらい」北極航海において、太平洋側北極海の公海に位置するチュクチ海台で低酸素化・酸性化が進んだ (酸素飽和度 50%以下、炭酸カルシウム未飽和)海水を初めて発見しました (図3a,b)。そのような海水は、この海域では少なくとも 2020年以前の約 20年間は観測されたことがありませんでした (図3c)。低酸素かつ酸性化した海水は、大量の有機物を微生物が分解するときに、多くの酸素を消費し二酸化炭素を排出するためにできたと考えられます。北極海のシベリア沿岸には、河川から大量の有機物が供給されています。また、近年海岸浸食や永久凍土の融解により有機物の供給が増えつつあります。このような有機物が分解されることにより低酸素化・酸性化が進行していることが別の研究から分かっています2。この低酸素かつ酸性化した海水がチュクチ海台まで運ばれてきたと考えられます。では、なぜ 2020年に急にそのような海水が運ばれてくるようになったのでしょうか?
その疑問に答えるために、研究チームは「みらい」および韓国とカナダの砕氷船により SASの下に取得されたデータを統合し、さらに過去に取得されたデータとも比較して、シベリア沖を含む太平洋側北極海の広い範囲で、海の流れがどう変化したのかを調べました (図4a,b)。その結果、近年 (2017年~2020年)は過去 (2008年~2016年)と比べて、アラスカ沖の時計回りの循環が縮小していることが分かりました。この時計回りの循環内は太平洋起源水が比較的多く占めており、循環の外は大西洋起源水が広がっています。循環の縮小は大西洋起源水の勢力が強くなったことを意味します。これは、近年の海氷減少により、大西洋起源水の流れが強くなったためです。チュクチ海台は勢力を拡大してきた大西洋起源水と、もともとこの海域を比較的多く占めていた太平洋起源水がぶつかり合う場所で、その結果北向きの強い流れができるのです。酸素飽和度の分布 (図4c,d)と照らし合わせてみると、近年現れた北向きの流れが、以前はシベリア沖でしか見られなかった低酸素水をチュクチ海台にまで運んでいることが分かります。2020年の「みらい」観測はチュクチ海台でこの低酸素水を捉えたのです。このような海洋循環の変化と低酸素水のチュクチ海台への輸送は、北極海全域を対象とした海氷海洋結合モデルによる数値実験 (2001~2020年)からも確かめられました (図5)。さらにモデルからは、2017年以降にチュクチ海台に低酸素水が連続的に運ばれてくるのではなく、流れの変動に合わせて断続的に運ばれてくることが分かりました。このため、2017年から2019年にかけての観測でも、時期によってはチュクチ海台で低酸素水が捉えられた可能性があります。
シベリア沿岸域は、今後も海岸浸食や永久凍土の融解、生物活動の活発化等により有機物がより多く供給されるようになり、低酸素化・酸性化が益々進行するでしょう。そして、海氷減少に伴う海洋循環の強化は、チュクチ海台に沿った北向きの流れも強化すると考えられます。その結果、低酸素化・酸性化の進んだ海域が北極海の公海にまで拡大することが懸念されます (図2)。2020年にチュクチ海台で観測された海水の酸素飽和度は低いもので 30%以下になります。そのような海水は、マダラの呼吸を低下させるなどの生理的な障害を引き起こします3。マダラは貴重な水産資源であり、今後北極海にも北上していく可能性が観測4からもモデル5からも示唆されています。しかし、低酸素化の進んだ海域が拡大すれば、マダラの北上も阻止されるかも知れません。海氷減少は北極海公海の漁業可能海域を広げるものですが、一方で低酸素化・酸性化海域の拡大は漁業可能海域の生態系に対する脅威となります。このため、チュクチ海台は公海の生態系の崩壊を感知する「炭鉱のカナリア」として、同海域の低酸素化・酸性化が今後どのようになるのか、生態系への影響はどうなるのかについて監視していくことが重要です。
本研究では、太平洋側北極海公海のチュクチ海台で2020年にみられた低酸素化・酸性化の異常現象について、SASの下に取得された日本・韓国・カナダの船舶観測データの解析から、その要因が海氷減少に伴う海の流れの強化にあることを特定しました。チュクチ海台周辺海域は将来的に公海漁業が行われる可能性のある海域のため、この海域の低酸素化・酸性化が生態系に及ぼす影響を定量的に評価することは、資源管理や生態系の保護にとって重要です。そのためには、今後も引き続き、継続的にこの海域の調査 (毎年のモニタリング)を進めていく必要があります。
北極海公海 (中央北極海)の生態系を保護し、水産資源の保存および持続可能な利用の確保のために、2021年6月に中央北極海漁業協定が発効しました。その後、準備期間を経て 2024年からこの協定下で中央北極海の科学調査がいよいよ実施される予定です。本研究はその先駆けとなり、チュクチ海台が北極海公海の中で最も早く低酸素化・酸性化が進んでいることを示しました。このため、当該海域の環境・生態系のモニタリングは、いち早く漁業協定に関わる政策立案に役立てることができるでしょう。本研究を含めた今後の科学調査の結果を政策立案に反映するためには、自然科学者と社会科学者の連携が必要であり、両者の間での議論はすでに始まっています。本研究を推進している ArCS Ⅱのプロジェクトゴールはまさに自然科学者と社会科学者が連携し、北極における国際的なルール形成のための法政策的な対応の基礎となる科学的知見を提供することにあります。
さらに本研究から、チュクチ海台の低酸素化・酸性化は、実は北極海全体に及ぶ大規模スケールの海洋循環 (大西洋起源水や太平洋起源水を運ぶ海の流れ)の変化に起因することが分かりました。各国の航海のみのデータでは解析領域が限られるため、大規模スケールの海洋循環には言及できません。このため、今回の成果はSASのような国際連携による広域観測ならではの成果と言えます。SASのような観測を毎年行うことは困難ですが、10年に一度キャンペーン的に国際連携観測を実施し、気候変動の時間スケールで北極海全体の状態を把握できるデータセットを構築することが重要です。SASに関係した研究者が中心になり、若手研究者を巻き込んで、2030年に SASと同様の国際連携観測 (SAS Ⅱ)を実施する計画が練られています。日本は現在、砕氷能力を有した北極域研究船を建造中ですが、「みらい」で行った海氷が存在しない海域の観測にとどまらず、新船は中央北極海を単独横断することがでるため、SAS Ⅱへの日本の貢献は飛躍的に大きくなることが期待されます。
ArCS, 2020, 北極域研究推進プロジェクト(ArCS)2015-2020 研究成果報告書, 222pp.
Semiletov et al., 2016, Nat. Geosci. 9, 361–365
Corkum and Gamperl, 2009, J. Exp. Zool. 311A, 231–239
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Alabia et al., 2023, Sci. Rep. 13, 4076
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