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シグネチャを活用した大気鉛直構造の推定手法の開発 ―大気構造をより効率的に表現する新しい機械学習モデルの適用―

2024.03.21
国立研究開発法人海洋研究開発機構

1. 発表のポイント

  • 大気の状態が不安定といった大気の熱力学的な状態を把握するためには、気温と水蒸気の鉛直方向の情報が必要である。主にラジオゾンデ※1 を使ってこれらの情報は収集されるが、観測頻度は通常1日2回程度の頻度しかなく、大気構造の連続的な変動を把握するには不十分な状況である。

  • 比較的新しい数学理論であるラフパス理論※2 における主要概念の一つの「シグネチャ※3」は、大気構造を高度・気温・水蒸気の3次元空間の曲線として幾何学的に捉え、その曲線の形状を数値化することができる。この特性を活用した大気構造の推定手法を開発した。

  • 「シグネチャ」を用いた機械学習モデルを構築した結果、大気構造を高精度に推定できることを確認した。構築したモデルによって熱力学な大気構造を連続的に推定できるため、これまで困難であった時間変化の激しい降雨現象前後の大気の安定度などの把握に役立つことが期待できる。

用語解説
※1

ラジオゾンデ
センサーをバルーンに取り付け、気温や風などの気象要素の鉛直分布を観測する。世界中で1日2回(場所によっては1回)の頻度で実施され、そのデータはリアルタイムに通報され、各国の気象予報センターが利用できる。

※2

ラフパス理論
浮遊する微粒子が不規則に移動するブラウン運動のような動きを数学で表現する際に、不規則に動いた後の座標を追っていくのではなく、どれだけ経路が寄り道したかの情報も追っていく必要があるという考え方の数学理論。この理論を使うことで不規則に見える動きも決定論的に表現できる。

※3

シグネチャ
ある場所から目的地に至るまでにたどった経路を表す際に、出発点と目的地の位置、途中でどれだけ横道に逸れたか、どれだけ8の字に曲がったかなどの大まかな特徴を並べていくと経路を復元できる。経路を復元できる特徴の集合を数学用語で「シグネチャ」という。

2. 概要

国立研究開発法人海洋研究開発機構(理事長 大和 裕幸、以下「JAMSTEC」という。)地球環境部門 大気海洋相互作用研究センターの藤田実季子グループリーダーは、海洋観測研究センターの杉浦望実主任研究員、纐纈慎也センター長とともに、「シグネチャ」を用いた新たな大気鉛直プロファイルの推定手法を開発しました。

大気の状態が不安定、といった大気の熱力学的な状態を調べるためには、気温と水蒸気の鉛直構造の情報が必要ですが、高層大気観測は一般的に1日2回程度の頻度でしか実施されておらず、例えば、降雨現象の前後など大気構造が短時間に変動するような場合など、大気の構造が変化する状況を連続的に把握するのは難しい状況にあります。

本研究では、大気の鉛直構造を高度・気温・水蒸気の3次元空間の曲線として幾何学的にとらえ、その形状を数値化することができる「シグネチャ」という概念を導入し、この大気の鉛直構造を高精度で推定できるモデルを構築しました。「シグネチャ」は、ラフパス理論という比較的新しい数学理論における主要概念のひとつです。「シグネチャ」を用い学習した機械学習モデルは、通常の観測値を用いて学習するよりも高精度に大気構造を推定可能であることが確認しました。連続的な熱力学な大気構造の把握が可能となるため、降雨現象前後の大気安定度などを逐次診断することができるようになります。

「シグネチャ」は、近年AIをはじめとする様々な分野で活用されていますが、その中でも大気科学分野への実用的な適用事例は、本研究が世界で初めてです。今回のような大気鉛直構造のみならず、時系列などの系列データにも広く扱うことができるため、多様な系列データを扱う地球科学分野において、「シグネチャ」の応用が期待されます。

なお、この研究はJST 創発的研究支援事業(JPMJFR206X)、JSPS科研費(20K12156)、JST AIP 日独仏AI研究 (JPMJCR20G5)の助成のもと行われました。

本成果は、アメリカ物理学連合が刊行する科学誌「Geophysical Research Letters」に3月20日付け(日本時間)で掲載されました。

論文情報
タイトル

Prediction of Atmospheric Profiles with Machine Learning using the Signature Method

著者
藤田実季子1、 杉浦望実1、 纐纈慎也1
所属
1. 海洋研究開発機構
論文公開日
2024年3月20日(日本時間)

3. 背景

気温と水蒸気の鉛直分布から成る大気の構造は、天気予報でも使われる「大気の状態が不安定」といった、大気の熱力学的な状態を知る上で重要な情報の一つです。この大気の鉛直構造は、ヘリウムまたは水素を充填したバルーンに気象センサーを取り付け、飛揚させながらデータを記録するラジオゾンデという観測手法などで把握しています。しかし、ラジオゾンデのような高層大気観測は一般的に1日2回程度しか実施されておらず、例えば、降雨現象の前後など大気構造が短時間に変動するような場合には、その状況を連続的に把握するのは難しい状況にあります。ラジオゾンデ観測以外にも、大気の鉛直構造を計測するセンサーやリモートセンシング技術がありますが、一部のセンサーでは、特に降雨時に雲・雨と水蒸気の分離が困難で正確な推定ができないという課題があります。

一方で、数理分野において、ラフパス理論という数学理論の研究が近ごろ急速に進められてきました。「シグネチャ」は、このラフパス理論の主要概念の一つであり、複数の点が順番に並んでいるようなデータ(系列データと呼ばれます)を空間上の曲線として幾何学的に捉え、形状を数値化して扱うことが可能です。

大気の鉛直構造を、複数の高度の気温と水蒸気の観測値、すなわち点群を地上からある高度(またはある高度から地上)まで順番につないだ曲線とみなせば(図1)、「シグネチャ」に変換することができます。さらに、大気の鉛直構造の変動は、このような曲線の形の変化として捉えることができます。「シグネチャ」を使ってこの形状を数値化し、モデル化することができれば、大気の鉛直構造を正確に推定できる可能性が見えてきました。

図1

図1 シグネチャを使った大気の鉛直構造の表現の例。各高度で観測される水蒸気量の値(点)を順番につなげ曲線として扱う。この曲線の形状を数値化したものがシグネチャ。

4. 成果

本研究では、大気の鉛直構造を示す「シグネチャ」を生成する機械学習モデルの構築に取り組みました。学習では、比較的単純な構造の教師ありニューラルネットワークを採用し、モデルの入力値は、地上観測データや静止気象衛星ひまわりなどの既存の観測網から入手可能なデータのみで構成しました。

福岡上空の大気の鉛直構造について、2021年8月を対象に精度評価を実施したところ、「シグネチャ」を用いた機械学習モデルは、高精度に気温と水蒸気の鉛直分布を推定できたのに対し(図2a)、「シグネチャ」を使わずに通常の観測データで構築した機械学習モデルは誤差が非常に大きい結果(図2b)となりました。「シグネチャ」を用いることで、大気の鉛直構造が効率的に機械学習モデルへ反映された結果と言えます。

図2

図2 2021年8月の福岡の機械学習モデルによる推定結果。実線は真値からの平均誤差、波線は標準偏差。実線上の横線は誤差の25と75パーセンタイル値を示す。全て真値からの差で示しており、ゼロに近いほど精度が良い。

対象期間中である8月14日には、福岡県周辺で線状降水帯が発生し、長時間にわたる強雨が観測されましたが、その前後の急激な構造の変化も高精度に推定できることがわかりました(図3a)。この推定した大気の鉛直分布から、大気の熱力学的な不安定性を示す指標を計算したところ、線状降水帯の発生前に大気の状態が急激に不安定化したことも確認できました(図3b)。

図2

図3 2021年8月の福岡の機械学習で推定された3時間毎の時系列。(a)水蒸気量の鉛直構造と(b)大気の不安定性を示す指標(k-index:大きいほど大気が不安定)。線状降水帯が発生した8/14以前から水蒸気が増加し、急激に不安定度が大きくなる様子が推定された。

5. 今後の展望

「シグネチャ」は文字認識・動作把握・医療・金融予測など、さまざまな分野で活用されており、本研究のような大気鉛直構造のみならず、物理的な構造を表すデータ群や、時系列などの系列データ全般に適用することができます。多様な系列データを扱う地球科学分野でのさらなる応用が期待されます。

本研究では、「シグネチャ」を機械学習に用いることで大気構造を高精度に推定可能であることを示しました。構築したモデルによって、既存の観測網から入手可能なデータを元に大気の鉛直構造を推定することができ、特別な観測をせずとも熱力学な大気構造の推定が可能となります。特に、強雨現象前後の大気構造の連続的な監視は、高頻度の高層大気観測がない現状において、重要な情報の一つとなります。

本研究のお問い合わせ先

国立研究開発法人海洋研究開発機構
地球環境部門 大気海洋相互作用研究センター 大気観測技術開発研究グループ
グループリーダー  藤田 実季子

報道担当

海洋科学技術戦略部 報道室