分析化学において、スペクトルから情報を抽出する際に強度比とエリア比のどちらを使うかという問題は、研究者の意思決定に関わるため数多くの実験的な検証が行われてきたが、一貫した結論は得られていなかった。本研究では、エリア比の方が強度比よりも√2倍高精度であることを理論的に証明し、この歴史的な問題を解決した。(図1)
従来、エリア比が強度比よりも高精度であるという実験結果は、エリアが強度の積分であり、より多くの情報を含むからだとされてきた。しかし本研究は、エリア比の高精度は、強度と半値全幅の間の負の共分散によりもたらされていることを示した。
スペクトルパラメータの計測の限界を表す解析解と分光学の知見を組み合わせることで、「分析の精度」と「装置の性能」を結びつける理論的基盤を確立した。この理論的基盤は、限られた予算内で最高の精度を達成するために、装置のどの部品に投資すべきかを判断する指標として利用できる。
図1 本研究の概略
国立研究開発法人海洋研究開発機構(理事長 大和 裕幸、以下「JAMSTEC」という。)海域地震火山部門 火山・地球内部研究センター 地球内部物質循環研究グループの萩原雄貴研究員および、固体地球データ科学研究グループの桑谷立主任研究員は、スペクトルデータの強度比やエリア比から物質の濃度などを推定する分析において、どちらの推定量を用いるとより精度よく推定できるかという、分析化学において長年議論されてきた問題に理論的な答えを導き出しました。
本研究では、クラメール・ラオの不等式※1 を基に、スペクトルパラメータの計測の限界を表す解析解を導出し、エリア比の精度が強度比の精度よりも√2倍優れていることを証明しました。従来、エリア比を用いた方が高精度となる理由は、エリアが強度の積分であるため多くの情報を含むからだと説明されてきましたが、本研究によりエリア比の高精度は強度と半値全幅の間に存在する負の共分散に起因することがわかりました。さらに、スペクトルパラメータの計測限界の解析解と分光学の知見を組み合わせ、「分析の精度」と「装置の性能」を繋ぐ理論的基盤を構築しました。この基盤を用いることで、装置のどの部品をアップグレードすれば効率的に分析精度を向上できるかを算出できます。これにより、限られた予算内で最高の分析精度を達成する最も効果的な装置の改良が実現できます。
本成果は、「Scientific Reports」に10月15日付け(日本時間)で掲載されました。本研究はJST CREST のJPMJCR1761と、JSPS科研費のJP19J21537とJP22J00081の助成を受けたものです。
Precision comparison of intensity ratios and area ratios in spectral analysis
クラメール・ラオの不等式
クラメール・ラオの不等式は、一般的に、ある確率分布の未知母数を推定する不偏推定量の分散に下限値が存在することを示す不等式です。具体的には、推定量の分散がフィッシャー情報量の逆数で与えられる下限値よりも小さくなることはないという原理を表しています。本研究では、この原理をより具体的な状況に適用しています。つまり、モデル関数を用いてスペクトル中のピークの強度、位置、半値全幅、面積などを推定する際の実験精度には、クラメール・ラオの不等式によって制限される理論的な限界が存在することを示しています。
分析化学者にとって、最小限の試料をもとに、最大限の精度を追求することは重要な目標です。この目標を効率的に達成するためには、分析の精度を支配する物理的・統計的な背景を理解することが不可欠です。分析化学分野に関わらず多くの理工学系の分野ではスペクトルデータを取得し、そのデータから抽出されるピーク強度、エリア、ピーク位置、半値全幅などのパラメータを用いて物質の物理化学的情報を推定することが頻繁に行われています。特に、強度比やエリア比は物質の濃度を表す代表的な指標であり、微量元素濃度比や同位体比を用いた環境モニタリングのように、僅かな濃度変動を検出する場合には、これらの比率を可能な限り精密に推定する必要があります。そのため、強度比とエリア比はどちらが高精度なのか、また限られた予算内でその精度を向上させるためには装置をどのように改善するのが効果的なのかという問いは、少なくとも1960年代以前から実験的な解明が試みられてきました。
しかし、これまでの研究では一貫した定量的な答えが得られていませんでした。これは、ノイズ、スペクトルの歪み、装置の性能、母分散の推定に伴う不確実性など、実験には様々な外的要因が影響していたためでした。これらの外的要因を排除するには、シミュレーションや理論的解析が有効であることは明らかですが、これまでそのようなアプローチは実施されていませんでした。
スペクトルパラメータの推定精度に関する上記の問題は、データ解析や装置をアップグレードする際の意思決定に深く関わるため理工学系の様々な分野で重要な課題です。そこで、先ずは、強度比とエリア比のどちらの精度が優れているかを理論的に明らかにするために、クラメール・ラオの限界を用いてスペクトルパラメータの精度限界の解析解を導出しました。さらに、得られた解析解と分光学の知見を組み合わせることで、「分析の精度」と「装置の性能」を結びつける理論的基盤を確立しました。最後に、この理論的基盤が高精度分析のための装置最適化の指針になることを示すために、ラマン分光法※2 によるCO2の炭素同位体比の非破壊局所測定を例に、装置の改良による精度向上の程度を数値計算しました。
クラメール・ラオの限界の概念に基づき、スペクトルパラメータの分散共分散行列※3(図2)を導出しました。
図2 スペクトルデータ点の間隔 (Δx)と半値全幅(Γ)、ピーク位置の差 (Δω)の平均値が以下の値になる条件下でのシミュレーションにより得られたa) 強度と半値全幅の相関とb) 強度とピーク位置の相関を表しています。Δxs = Δxw = 0.05 cm-1/pixel, Γs = Γw = 50 cm-1, Is = 1000 e-, Iw = 100 e-, and Δω = 2000 cm-1。 c) シミュレーションによって生成された典型的なスペクトル。d) 本研究で導出した、スペクトルパラメータ(θ = (I, ωc, Γ))の分散共分散行列。
この結果、ピークの強度、位置、半値全幅、エリアの相対標準偏差の下限値は以下の式で表されることが分かりました。
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ここで、Δxはスペクトルデータ点の間隔、Γは半値全幅、Iは強度を意味します。これらの式から次のことが明らかになりました。
さらに、これらの差や比の相対標準偏差の解析解を計算すると、以下の式が得られます。
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(5) |
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これらの結果から、強度比の精度とエリア比の精度の比を取ると以下の式が得られます。
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この式は、エリア比の方が強度比よりも√2倍精度の良い推定量であることを示しています (図3)。ただし、この関係はあらゆるスペクトルで成立する訳ではなく、モデル関数やノイズモデルに依存することに注意が必要です。例えば、モデル関数をガウス関数ではなく、ローレンツ関数に変えて計算を行うと式9の右辺は√2ではなく√3になります。
図3 クラメール・ラオの不等式を基に導出したポアソンノイズ限界下のガウシアンプロファイルで近似されるピークの強度比 (σ*RI) とエリア比 (σ*RA) の相対標準偏差の下限値の解析解です。I, Γ, Δx, RIはそれぞれ、強度、半値全幅、データ点間隔、強度比を表す。添え字'w'と's'はそれぞれ、弱いピークと強いピークのスペクトルパラメータを示しています。
図2a-bに示されるように、シミュレーション結果から強度と半値全幅の間には明確な負の相関があることが分かりました。一方、強度とピーク位置の間には相関が見られませんでした。この結果は理論計算とも一致しており、強度と半値全幅の間に負の共分散が存在し、強度とピーク位置の間の共分散はゼロであることが示されています(図2d)。
エリア比の精度が√2倍優れている理由を定性的に説明すると、強度と半値全幅の間に存在する負の共分散がカギとなります。具体的には、強度が小さいと半値全幅が大きくなり、逆に強度が大きいと半値全幅が小さくなる傾向があるため、強度と半値全幅の積に比例するエリアは一定の値を保ちやすくなります。このため、エリア比の精度が優れているのは、強度と半値全幅の間の負の共分散によるものであり、従来の「エリアが強度の積分であるため、強度情報を多く含むから精度が高い」という説明は正確ではありません。
導出した式1-8中のデータ点の間隔(Δx)や半値全幅(Γ)を装置の性能パラメータで表すことで、スペクトルパラメータの精度と装置性能を結びつける理論を構築しました。(図4)この理論的基盤により、エリア比の相対標準偏差は、検出器のピクセルサイズ、回折格子定数、 分光器の焦点距離、 波長などの装置パラメータの関数として表すことが可能になります。
図4 装置の性能を表すパラメータ (例えば、検出器のピクセルサイズ、回折格子定数、分光器の焦点距離など)を用いて、スペクトルデータ点の間隔 (Δx)と半値全幅(Γ)を表し、本研究で導出したエリア比の相対標準偏差の解析解に代入することで、分析の精度と装置の性能を繋ぐ解析解を導きました。この式を使えば、装置性能パラメータを変化させたときに精度がどのように変化するのかを数値計算できます。
次に、この理論を用いてラマン分光法によるCO2の炭素同位体比の非破壊局所測定の精度が、装置の改良によってどの程度向上するのかを数値計算しました。(図5)この手法は、CO2のラマンスペクトルの内の12CO2と13CO2のピーク強度比やエリア比を利用して同位体比を推定します。図5は、装置の性能を変化させると炭素同位体比の測定精度がどう変化するかを示しています。縦軸のエリア比の相対標準偏差は炭素同位体比の標準偏差に相当します。青い領域は典型的な装置の性能の範囲を示し、縦の点線はHagiwara et al. (2023)で利用した装置の性能を示しています。
この図から、装置の性能パラメータを水色の領域内で変化させるとき、検出器のピクセルサイズを16 μmから5 μm程度へ小さくすることが同位体比の測定精度の向上に最も有効だということが分かります。このような数値計算により、装置のどの部品をアップグレードすれば効率的に精度を向上させられるかを定量的に推定できます。このような数値計算は、装置の更新費用を申請する際に説得力のある根拠を提供し、研究費をより効果的に使用するための指針となります。
図5 右上はCO2のラマンスペクトルを表しており、12C16O2と13C16O2に起因するピーク強度比やエリア比を用いて炭素同位体比を推定できます。この手法は、左上の写真のような火山岩斑晶中に捕獲された微小な包有物中のCO2への応用を目的に開発が進められています。下の4つの図は、装置性能を変化させたときにエリア比の相対標準偏差がどの程度向上するかを示しており、それぞれ a) 分光器の焦点距離、b) 検出器のピクセルサイズ、c) 回折格子の刻線密度、d) 入射スリット幅を変化させたときの精度の変化が計算されています。
ラマン分光法
ラマン分光法は、光を物質に照射し、光が物質と相互作用する際に生じるラマン散乱現象を利用する技術です。ラマン散乱では、入射光の一部が物質の分子振動や回転によってエネルギーを変え、異なる波長の散乱光として放射されます。この散乱光のエネルギー分布や光子数を検出し解析することで、物質の分子構造や化学組成、応力、温度、濃度などを特定することができます。
分散共分散行列
分散共分散行列は、複数の変数のばらつきとそれらの相互関係をまとめた行列です。この行列の対角要素には各変数の分散が、非対角要素には異なる変数間の共分散が含まれています。分散は各変数のばらつきの程度を示し、共分散は2つの変数がどの程度連動して変動するかを示します。分散共分散行列を用いることで、データの全体的なパターンや変数間の関連性を把握することができます。
本研究では、クラメール・ラオの限界の概念に基づき、強度比と面積比はどちらが高精度かという分析化学における長年の論争に対して、エリア比は強度比よりも√2倍精度が良いという定量的な答えを導きました。さらに、導出した計測の限界の解析解と分光学の知見を組み合わせることで「分析の精度」と「装置の性能」を関連付ける理論的基盤を構築しました。
また、ラマン分光分析を例に、「分析の精度」と「装置の性能」を関連付ける理論的基盤を構築しましたが、今後は他の分析手法の専門家と共同研究を進め、様々な分析手法においても「分析の精度」を「装置の性能」の関数として表現できるようにすることを目指します。これにより、異なる分析化学の分野でもクラメール・ラオの限界のフレームワークに基づく装置の最適化が可能になり、最小限の試料で最大限の精度を効率的に達成するための理論的基盤が他分野にも拡張されます。
さらに、本研究で例に挙げたCO2の非破壊局所炭素同位体比測定は、火山岩の斑晶中に含まれる数μmから数十μm程度の微小な包有物への適用を目指しています。実際、本研究の理論に基づいて新たに購入したピクセルサイズの小さい検出器を用いることで、炭素同位体比の測定精度が格段に向上することが確認されました。将来的には、この手法を天然試料の分析に適用し、噴火の引き金になるCO2起源物質の特定に役立てたいと考えています。
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報道担当