前編:挑戦と挫折
高知の小さな酒場。
日本酒を愛する人々が集うカウンターで、二つの世界が出会った。
「宇宙酒があるなら、深海酒もできるんじゃないですか」
諸野祐樹は、海底下の微生物を追う研究者。
上東氏は、酵母のエキスパートとして蔵元を支えてきた“現場の知”の担い手だ。
立場も、肩書きも、専門も違う。
だが、酒を面白がる視線だけは、ぴたりと重なっていた。
酵母の癖。発酵の温度。蔵ごとの味の違い。
理屈と経験が、同じテーブルの上で交わっていく。
そのとき、ふと口にした一言が、すべての始まりだった。
荒唐無稽に聞こえた。
だが、二人の間では、すでに“試す価値のある仮説”に変わっていた。
話は現実的な方向へ動き出す。
酵母を用意し、条件を詰め、上層部に相談するところまで至った。
しかし、最後の最後で計画は通らなかった。
構想と計画書だけが残った。
深海酒は、いったん引き出しの奥にしまわれた。
再び動き出した歯車
それから五年。
研究航海の共同利用枠で、再び深海に挑める機会が訪れる。
諸野は、上東氏に一本の電話をかけた。
「……もう一度、やりませんか」
即答はなかった。
前回の徒労の記憶が、二人の間に静かに横たわっていた。
それでも、深海への思いは消えていなかった。
再び条件を洗い直し、手順を組み替え、準備を重ねる。
最初の挑戦は、水深約5,540メートル。
108株の酵母を海底に約一年間設置した。
引き上げられた容器の中に、生き残りはなかった。