2013年 3月 18日
独立行政法人海洋研究開発機構
1.概要
独立行政法人海洋研究開発機構(理事長 平 朝彦)海洋・極限環境生物圏領域の北里 洋領域長らの研究チームは、南デンマーク大学、マックスプランク海洋微生物学研究所、コペンハーゲン大学、スコットランド海洋科学協会等と共同で、世界で最も深いマリアナ海溝チャレンジャー海淵(水深10,813~10,900m)において、世界で初めて水深10,000mを超える超深海の海底堆積物中の酸素濃度の現場測定を実施するとともに、堆積物のコア試料の採取・有機物分析を行うことに成功しました。
これらの測定結果と得られた試料を分析したところ、その周辺の深海平原(勾配の緩やかな大洋の深海底:水深6,018~6,071m)で採取したものに比べて、チャレンジャー海淵の海底の方が、(1) 生物活性を示す有機物の分解に伴う酸素消費量が多いこと、(2) 有機物量の指標となる堆積物中の有機炭素、餌として利用しやすい有機物である植物プランクトン由来の色素クロロフィルaや、その分解生成物であるフェオフィチン(※1)の濃度が高いこと、(3) 堆積物中に生息するバクテリアやアーキアなど微生物の生息密度も高いことが明らかになりました。
今回の調査結果は、チャレンジャー海淵の海底は深海平原よりも有機物の供給が多く、かつ微生物の活性が高いことを示しており、「水深が下がるほど海底に到達する有機物の量が減り、生物の代謝等の活動も低下する」という超深海における生態系についての従来の考えを覆すものです。
本成果は、平成22年度科学研究費補助金 基盤研究(A):嫌気環境で促進される生命史ー現場観測・培養・遺伝子から解く有孔虫進化のパラドクス(研究課題番号:21244079)を用いた成果であり、3月18日付け(日本時間)のNature Geoscienceに掲載される予定です。
2.背景
海洋研究開発機構では、生命の起源を解明する鍵とも言われる深海等の極限環境生物の研究に取り組んでいますが、そうした生物を理解するためには、実際に生命が生息する現場において環境条件など生命活動に関わる様々な条件を把握することが必要です。特に、堆積物中でバクテリア等の微生物が有機物を分解する際に消費される酸素の量や(好気分解)、有機炭素や生物が餌として利用しやすい有機物の濃度を把握することは、様々な海底環境に生息する生物が、どのように適応しているかを知るための指標となります。
水深10,000mより深い超深海については、高い水圧に阻まれ、有人・無人潜水艇による探索や観測がほとんど行われて来ませんでした。しかし1960年にジャック・ピカールとドン・ウォルシュが搭乗した「Trieste」が世界で最も深いマリアナ海溝・チャレンジャー海淵、水深10,911mの海底に到達し、海底や生物の観察が行われたことを契機として、超深海を探査するための探査機・装置の技術開発が進みました。そして近年になりようやく、超深海に生息する微生物を含む極限環境生命圏の研究が進むようになりました。
これまでの調査の結果、チャレンジャー海淵の海底には、魚類等の大型の生物は確認されていませんが、カイコウオオソコエビ(端脚類)等の小型の生物が生息し、また、堆積物中には原始的な底生有孔虫が数多く生息するなど、餌に乏しい太古の貧栄養な海底環境に生息していた古代生物の特徴を色濃く残す生物のレフュージア(隠れ家)となっていることが明らかになりました(平成17年2月2日既報)。また、カイコウオオソコエビには、通常の生物は餌として利用できないセルロースを分解する酵素を持つことが分かりました(平成24年8月16日既報)。これらのことは、超深海の海底は通常の底生生物の餌となる有機物が極端に乏しい貧栄養環境であり、そこに生息する生物はそうした特殊な条件下で生命活動を維持していることを示唆するものです。
しかし、これまでは10,000mよりも深い超深海の海底で、有機物濃度や、微生物活性の指標となる海底の酸素濃度や酸素の消費速度を直接測定する手段が無かったため、このことを検証することができず、研究が進んでいませんでした(これまでに測定された最大水深は5,790m)。今回、超深海の圧力に耐えられるよう改良した酸素センサや採泥器などを取り付けた2種類のフリーフォール型観測装置を用いて、チャレンジャー海淵の海底における酸素濃度の測定を世界で初めて行うとともに、有機物濃度分析のため堆積物のコア試料の採取・有機物分析を行いました(観測装置については図2参照)。
3.成果
本研究では、微小酸素電極を搭載したフリーフォール型観測装置により、深海平原サイト(水深6,018m)で36点、チャレンジャー海淵サイト(水深10,817m)で51点の酸素濃度の測定を行うとともに、ハイビジョンカメラ付き採泥システムを備えた別のフリーフォール型観測装置を用いて、両地点でそれぞれ6本、9本の堆積物のコア試料(全長25cm~45cm)の採取・水中ビデオ撮影を行いました。
微小酸素電極により計測された海底堆積物の鉛直方向の酸素濃度の記録から、チャレンジャー海淵サイトの方が、酸素が海底に浸透している深さが浅く、堆積物内部では好気分解が活発であり、より多くの酸素が消費されていることが示唆されました。実際、この記録から酸素が堆積物中で消費される速度を求めた結果、チャレンジャー海淵サイトでは、1平方メートルあたり、1日に154マイクロモルの酸素が消費されていることが分かりました。これは、深海平原サイトよりも1.8倍ほど高い値です(図4)。
また、堆積物のコア試料に含まれる有機炭素の含有量と、生物が餌として利用しやすい有機物であるクロロフィルaやフェオフィチンの総量を比較した結果、チャレンジャー海淵サイト堆積物中の有機炭素、クロロフィルa、フェオフィチンの総量は1平方メートルあたりそれぞれ1.1グラム、560ナノグラム、1680ナノグラムという値を示しました。これらは、深海平原サイトより得られた値の、それぞれ1.2倍、4.3倍、2.7倍です。また、バクテリアやアーキアなど微生物の平均生息密度も1立方センチメートルあたりの平均値は970万個体であり、深海平原サイトよりも6.7倍も高いという結果が得られました。これらのことは、チャレンジャー海淵では、深海平原よりも有機物の供給量が多く、また好気分解が活発あることを示しており、「水深が下がるほど海底に到達する有機物の量が減り、生物の代謝等の活動も低下する」、という超深海生態系についての従来の考えを覆すものです。
しかしながら、チャレンジャー海淵のいずれの地点においてもクロロフィルaやフェオフィチンの総量は、有機炭素の総量に比べそれぞれ0.5ppm、1.5ppmという極めて少ない量であることから、有機物の大部分は難分解性物質であり、濃度は高くとも通常の底生生物にとっては餌にできる有機物に乏しい貧栄養環境であることには違いありません。したがって本成果は、これまでの底生生物の研究から明らかになった、「深海域の微生物は通常の微生物に比べ極めて活性が低い(餌となる有機物の消費が少ない)」ことや、「難分解性の有機物を分解できる生物が深海域の貧栄養環境に適応している」といった考えとは矛盾するものではありません。
4.今後の展望
今回の研究によって、チャレンジャー海淵の海底は、周辺の深海平原の海底に比べ、有機物の分解に伴う酸素消費量、有機炭素濃度、植物プランクトンに由来する色素とその分解生成物の濃度、そして微生物の生息密度がいずれも高いことから、生物の活性が周辺の深海平原よりも相対的に高く、海底下にも貧栄養環境に適応した生態系が存在することが明らかになりました。
今後、今回の調査で得られた結果が、他の超深海環境にも見られる普遍的なものなのか、チャレンジャー海淵特有のものなのかを検証していきます。当機構では、平成25年1月から有人潜水調査船「しんかい6500」による世界周航研究航海を行なっており(平成24年12月13日既報)、今秋に世界第2位の深さをもつトンガ海溝・ホライゾン海淵(10,850m)における調査を実施する予定ですが、この調査の一環で今回実施したものと同様の現場測定を行う予定です。
その調査で得られる知見と本成果について生態学的観点から多角的な研究を進め、海洋の極限環境における生命の生存限界の理解と極限環境への適応戦略等の解明に取り組む考えです。
※1クロロフィルa、フェオフィチン:
クロロフィルは、海洋表層の植物プランクトンに多く含まれている有機化合物であり、それが分解されるとフェオフィチンになります。クロロフィルは光合成の際に光を吸収してエネルギーに変換する役割をしており、海洋表層の一次生産を支える珪藻や緑藻等の単細胞藻類に多く含まれています。珪藻や緑藻は多くの海洋生物が餌とすることから、クロロフィルはその空間における餌環境(餌となる有機物量)を、その分解生成物であるフェオフィチンは珪藻や緑藻を餌とする生物の活性を表す代表的な指標として用いられます。自然界においては海底にたどり着くまでに多くのクロロフィルは分解されてしまうため、堆積物中にはそれぞれわずかな量しか含まれません。
図1 調査海域図
a:マリアナ海溝・チャレンジャー海淵の位置、b: 調査を行った場所。チャレンジャー海淵サイトでは計4回、深海平原サイトでは計3回の観測が行われた。
図2 本研究で使用した2台のフリーフォール型観測装置と付帯装置
a:南デンマーク大学・スコットランド海洋科学協会・マックスプランク海洋微生物学研究所が共同開発し、当機構で耐圧化改造を施したフリーフォール型観測装置。アルミニウムのフレームに浮力材チェーン、ウエイト、音響切り離し装置、そしてセンサなどを搭載する。船上から海底に投入し、着底後、センサで測定を行う。測定が終了する時間になると船から音響信号を送信、音響切り離し装置が信号を受信し、ウエイトを切り離す。これによって観測装置に浮力が働き、海面まで浮上、船内に回収される。
b:aの観測装置に搭載された微小酸素電極装置。先端径が数十マイクロメートルと針の先ほどの細さをもった特殊な酸素電極を、高精度モーターによって0.5~1mm間隔で海底に挿しながら、海底環境を乱すことなく酸素濃度の鉛直分布を測定する。測定が終了すると電極は一端上昇し、水平方向に移動する。そして、前回とは少し離れた場所で再び測定が行われる。
c:当機構で開発したカメラ付き採泥システムを搭載したフリーフォール型観測装置。aのフリーフォール型観測装置と同様の方法によって運用される。ビデオ撮影のためのライトが点灯しており、脚に取り付けられた採泥器の中に、採取された堆積物が入っているのが見える。
d:2種類のフリーフォール型観測装置に使用した浮力材チェーンの一部。水深10,000mを超える高圧環境下でも圧壊しないよう、微小なガラスの球体を含む特殊な樹脂によって作られている。
図3 カメラ付き採泥システムによって撮影された海底の様子。
a:深海平原サイト(水深6,032m)と b:チャレンジャー海淵サイト(水深10,900m)。深海平原サイトの海底には、底生生物と、それらが作ったと思われるマウンド状の構造が見られた。また、魚類などの大型生物が確認された。チャレンジャー海淵サイトの海底には、底生生物が作った構造は見られなかったが、流れによって作られる波状の構造(リップルマーク)がわずかに見られた。この水深では魚類などの大型生物は見られず、わずかにカイコウオオソコエビ(端脚類)、なまこ等が見られた。
図4 a:深海平原サイト(水深6,018m)と b:チャレンジャー海淵サイト(水深10,817m)の海底における酸素濃度の鉛直分布。深海平原サイトでは堆積物中での酸素の減少が少なく、チャレンジャー海淵サイトでは多い。これらのことは、チャレンジャー海淵の堆積物では酸素の消費量が多く、したがって有機炭素の好気分解も活発であることを示唆している。
図5 a,b:有機炭素、c, d,:クロロフィルa、フェオフィチンの濃度、e, f:微生物(原核生物)の生息密度。a, c, eは深海平原サイトから、b, d, fはチャレンジャー海淵から得られた堆積物の分析結果をそれぞれ示す。