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プレスリリース

2015年 7月 7日
国立研究開発法人海洋研究開発機構

エノキは煮崩れるのか?
― キチンが超臨界水中で分解される様子を高解像度顕微鏡で観察 ―

1.概要

海洋研究開発機構(理事長 平 朝彦)海洋生命理工学研究開発センターの出口茂研究開発センター長らは、深海熱水噴出孔に見られる高温・高圧の水環境で起こる物理・化学現象を直接観察できる高解像度光学顕微鏡を用いて、250気圧の高圧下でエビやカニなどの甲殻類に含まれる多糖の一種「キチン」が400℃近い高温・高圧水中で分解される様子を観察することに成功しました。さらに、キチンを主成分とした細胞壁をもつエノキの細胞の構造が、200℃以上で煮崩れ始め、最終的に400℃近辺で完全に分解される様子を観察することにも成功しました。

キチンはセルロースに次いで世界で豊富に存在するバイオマス(※1)とされ、その有効活用が期待されています。一方、同じく高温・高圧の環境である深海の熱水噴出域にもハオリムシやゴエモンコシオリエビなどキチン質からなる深海生物が生息していることが知られています。JAMSTEC海洋生命理工学研究開発センターでは本研究で得られたキチンの安定性に関する知見を基に、これら極限環境に生きる深海生物の生態および独自の構造機能を解明し、その工学利用を進めていく予定です。

本成果はScientific Reports誌に7月7日付け(日本時間)で掲載されました。

タイトル:
In situ microscopic observation of chitin and fungal cells with chitinous cell walls in hydrothermal conditions
著者名:
出口 茂1、辻井 薫2、掘越 弘毅1
所属:
1国立研究開発法人海洋研究開発機構
2中央大学、理工学部
URL:http://dx.doi.org/10.1038/srep11907

2.背景

キチン(図1左)はアミノ糖からなる多糖の一種で、エビやカニなどの甲殻類や昆虫の殻、あるいはキノコやカビなどの細胞壁の主成分です。キチンは極めて分解されにくい物質であることが知られており、例えば5億年前のカイメンの化石からも分解されずに残っているキチンが検出されるほどです。また、キチンはセルロース(植物の細胞壁の主成分:図1右)に次いで豊富に存在するバイオマスであり、これらを資源として有効活用する取り組みが進められています。最近では、キチンと様々な無機材料を高温・高圧下で複合化し、再生医療、ドラッグデリバリー、水処理などに役立つ機能性材料を作り出す研究も行われています。しかしながら、これらの研究開発を進める上で重要となる、高温・高圧水中でのキチンの安定性に関する化学的知見はほとんどありませんでした。

JAMSTEC海洋生命理工学研究開発センターでは、深海に存在する様々な極限環境、なかでも熱水噴出孔(図2)に存在する高温・高圧の極限環境に関する研究開発を進めています。これまでに高温・高圧水環境で起こる物理・化学現象を、2マイクロメートルという世界最高の光学解像度で観察できる顕微鏡を開発し(図3)、水と油の高温・高圧溶液を冷却することによってナノサイズの油滴が容易に生成できること(2013年5月14日既報2015年6月3日既報)、さらにはセルロースの結晶構造が、200℃を超える水の中でも維持されることなどを明らかにしてきました。今回の研究では、高温・高圧水中でのキチンをこの高解像度光学顕微鏡で直接観察し、その安定性を評価しました。

3.成果

ズワイガニ由来のキチン粉末を水に分散して高温・高圧セルに注入し、250気圧の一定圧力下で加熱しながら顕微鏡観察を行ったところ、390℃に加熱してようやく分解されることがわかりました(図4)。一般に生物由来の物質は、人工物と比べると分解されやすいと思われがちですが、代表的な合成プラスチックであるポリスチレンが、同様の条件下では360℃を越えると急速に分解されることを考えると、キチンはそれを上回る高い安定性を有することが本研究により示唆されました。

さらにキチンを主成分とした細胞壁を持つエノキの細胞を用いて、同様の実験を行いました。柔らかな食感のエノキですが、どんなに長時間煮込んでも、決して煮崩れることはありません。これは100℃の水の中で長時間処理しても、エノキ細胞の構造が崩壊せずに維持されることを意味しています。キチンが高い安定性を持つことを考えると、キチンを主成分とする細胞壁を持つ細胞の構造も、同様の高い安定性を有すると予想されます。

キチンを用いた実験と同様に、250気圧の一定圧力下で加熱しながらエノキ細胞の顕微鏡観察を行ったところ、200℃までは構造に大きな変化は見られませんでした。250℃を越えるとエノキ細胞の急激な収縮が始まり、最終的には380℃~390℃で完全に分解されました(図5)。

エノキ細胞が完全に分解された250気圧、380℃の高温・高圧状態はまさに、深海の熱水噴出域に相当する環境です。深海にはこのような超臨界状態の水(超臨界水:※2)が天然に存在しており、そこでは水と油が自由に混ざり合うなど常温・常圧の水とは全く異なる性質を示します。本研究結果から、キチンは超臨界水を超える高温・高圧環境でないと煮崩れない、高い安定性を有する物質であることが立証されました。

4.今後の展望

キチンやセルロースが、高温・高圧水の中でも高い安定性を示す理由はよく分かってはいませんが、結晶中の分子の間に働く強い水素結合が大きく寄与していると考えられています。今後は、外部機関とも協力しながら、キチンおよびセルロース系バイオマスの安定性、すなわち難分解性の起源を解明すべく、研究を進めていく予定です。

深海熱水噴出孔にはハオリムシ(チューブワーム)やゴエモンコシオリエビなど、キチン質からなる構造を持った深海生物が生息していることが知られています。高温・高圧の極限環境でも豊かな多様性を維持してきたこれら生物の独自の生存戦略や技術体系には、人間社会が持続可能な成長を達成するのに必要な技術開発のヒントが多く隠されていると考えられます。JAMSTEC海洋生命理工学研究開発センターでは、海洋や深海に棲む生物が持つ独自の構造機能を応用した技術開発に資する研究(バイオミメティクス)を推進しています。今回の成果をもとに、今後はキチン質からなる構造を持った生物の機能の解明やその工学利用も進めていく予定です。

※1 バイオマス
家畜排せつ物や生ゴミ、木くずなどの動植物から生まれた再生可能な有機性資源のこと。地球温暖化防止や循環型社会形成の観点から、国産バイオ燃料や林地残材など未利用バイオマスの有効活用が積極的に進められている。

※2 超臨界水
218気圧、374℃よりも高温高圧状態の水。水は地上(1気圧)では100℃で沸騰するが、水深100m(10気圧)では180℃、水深1000mでは312℃にまで高くなる。ところが218気圧(水深約2200m)、374℃に達すると水はいくら温度を上げてもそれ以上沸騰しなくなり、液体と気体の区別がつかない状態となる。このような水の状態を「超臨界水」と呼ぶ。

図1

図1:キチン(左)とセルロース(右)の化学構造

図2

図2:深海底の熱水噴出孔から噴き出す熱水

図3

図3:研究に使用した高温・高圧顕微鏡

図4

図4:390℃、250気圧の超臨界水中でキチンが分解されていく様子。各画像の大きさは約0.2 mm × 約0.2 mm。

図4

図5:250気圧の水の中で、加熱によってエノキ細胞が煮崩れていく様子。各画像の大きさは約0.2 mm × 約0.3 mm。

エノキは煮崩れるのか?―高解像度顕微鏡による観察―

(本研究について)
国立研究開発法人海洋研究開発機構
海洋生命理工学研究開発センター
研究開発センター長 出口 茂
(報道担当)
国立研究開発法人海洋研究開発機構
広報部 報道課長 松井 宏泰
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