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2014年 5月 27日
独立行政法人海洋研究開発機構

北極海の渦が育む海洋生態系
~海氷減少に伴ってプランクトンの生息環境が向上~

1.概要

独立行政法人海洋研究開発機構(理事長 平朝彦、以下「JAMSTEC」という)地球環境観測研究開発センターの渡邉英嗣研究員、小野寺丈尚太郎主任研究員らは、北極海の海氷減少が海洋生態系にどのような影響を与えるのかを調べるために、北極海の太平洋側に設置したセディメントトラップ係留系(※1)による観測を実施し、さらにその観測結果を踏まえた渦解像海氷海洋結合モデル(※2)による数値実験を地球シミュレータを用いて行いました。その結果から、栄養分の豊富な大陸棚由来の海水(陸棚水)が、近年の海氷減少で活発化した海の渦や循環によって水深の深い北極海盆域を輸送されることで、初冬の海氷下においても生物由来の有機物粒子が多く沈降していることを明らかにしました。

本研究成果は、これまで一年中海氷に覆われていたために動・植物プランクトンや魚類の生息は困難と考えられていた北極海盆域で生息環境が向上していることを意味するものであり、北極域の気候変動が海洋生態系へ与える影響の評価にもつながるものです。

なお、本研究は日本学術振興会の科学研究費補助金基盤研究S(研究課題番号:22221003)の一環として実施したものであり、この成果はネイチャー・コミュニケーションズ誌に5月27日付(日本時間)で掲載予定です。

タイトル:
Enhanced role of eddies in the Arctic marine biological pump
著者名:
渡邉 英嗣1,小野寺 丈尚太郎1,原田 尚美1,本多 牧生2,木元 克典1, 菊地 隆1,西野 茂人1,松野 孝平3, 4,山口 篤4,石田 明生5,岸 道郎4
所属:
1.独立行政法人 海洋研究開発機構 地球環境観測研究開発センター
2.独立行政法人 海洋研究開発機構 地球表層物質循環研究分野
3.大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 国立極地研究所
4.北海道大学 水産科学研究院
5.常葉大学 社会環境学部

2.背景

北極海における近年の急激な海氷減少は社会的関心事の1つとなっています。中でも海氷減少による動・植物プランクトンへの影響を評価することは、魚類や海生哺乳類の生息環境が今後どのように変化していくかを予測するために重要です。

一般に植物プランクトンの生産活動(※3)は光・水温・栄養塩(海水に溶けている窒素やリンなどの栄養素)の条件に依存します。海氷は日射を遮るので、海氷で覆われる時期が短くなれば植物プランクトンの成長に好都合となる一方、海氷の融け水は海洋表層の栄養塩濃度を低下させるため、結果として成長が抑制される場合もあり、海氷減少は海洋生態系を支える植物プランクトンに大きな影響を与えます。

また北太平洋からベーリング海峡を通じて流入する海水(太平洋起源水)は、北極海に熱と栄養塩を輸送する役割を担っており、太平洋起源水がその輸送経路上で北極海の海氷減少の影響を受けることがあれば、海洋生態系の変動をもたらす可能性があります。

このように、海氷減少に伴う北極海の海洋環境を正確に把握することは、海洋生態系への影響評価を行う上でも非常に重要です。

さらに、植物プランクトンの生産および動物プランクトンによる捕食は、粒子状有機物を沈降させる過程を通じて大気中のCO2を海洋深層に隔離する役割も持っています。このシステムは「生物ポンプ」と呼ばれ、地球温暖化に大きな影響を及ぼすCO2濃度をコントロールするものとして注目されています。これまでの研究で、この「生物ポンプ」は、北極海ではあまり効率的に働かないことが報告されてきました。これは北極海の中でも水深の深い海盆域では、生物生産による有機物形成が不活発であることと、有機物をいち早く沈降させるバラスト粒子(※4)が他海域に比べて少ないことによるものです。しかし、海氷減少に伴って生物生産を介した有機物の沈降が活発化した場合、北極海が重要なCO2吸収域となることも想定されます。すなわち、北極域の気候変動が動・植物プランクトンに与える影響を調べることは、地球全体の物質循環の変化を炭素も含めて科学的に評価することにもつながり、このことは地球温暖化を研究する上でも重要です。

しかしながら、北極海の海洋生態系に関するこれまでの現場観測は、1回あたり数ヵ月程度でなおかつ場所も限定されているのが現状です。この観測の時空間的な空白を補完するには数値シミュレーションを用いた解析が科学的には有効な手法ですが、北極海では10 kmスケールの渦や複雑な海底地形に沿ったローカルな流れが、この海域全体の海洋の動きを支配しているという特徴があり、地球温暖化予測に利用されるような従来の気候モデルでは十分に対応できない現象が多く残されています。さらに北極海の海洋生態系を対象とした数値実験による研究もまだ歴史が浅く,今回の研究は、こうした課題に取り組むことから始まりました。

3.成果

JAMSTECを中心とする共同研究チームでは、北極海における海氷減少が海洋生態系に与える影響を調査するため、同海域の太平洋側に位置するノースウィンド深海平原(傾斜の緩やかな大洋の深海底;以下、NAPとする)にセディメントトラップ係留系を設置し、2010年10月から現在に至るまで沈降粒子を捕集する時系列観測を行っています(図1)。その結果、極夜が始まる10月以降の初冬期に新鮮な二枚貝の稚貝を多く含む有機物粒子が大量に捉えられていることがわかりました(図2)。沈降粒子の中には鉱物や沿岸でよく見られる珪藻種も存在することから、水深が浅い大陸棚からの海水の輸送が関与していると推測されました。

この観測結果を踏まえ、本研究チームは、NAP地点で冬季に沈降粒子量が最も多くなるメカニズムを調べるために、海氷海洋物理モデルCOCO(※5)に、北極海仕様の海洋生態系モデルNEMURO(※6)を結合させた北極海全域を対象とする数値モデルを新たに開発しました。これを用いてJAMSTEC地球シミュレータ上で数値実験を行い、NAP地点における生物由来粒子の季節変動を再現することに成功しました(図3)。

本実験によって、ノースウィンド深海平原に加え、東側のカナダ海盆南部でより多くの粒子が沈降していることが明らかになりましたが、これには海洋中の渦活動が重要な役割を担っていると考えられます。これまでの研究で、太平洋起源水がチャクチ陸棚域からカナダ海盆域に流入する際に直径数十kmの海洋渦が生成されることが報告されていますが(※7)、本実験結果からは、これらの渦によって栄養塩豊富なチャクチ陸棚水が海盆域に輸送されるとともに、渦内部では動・植物プランクトンが活発に活動していることが明らかとなりました。

極夜時期の海氷下では北極海の多くの海域でプランクトン活動が休止状態ですが、流入する海洋渦の中では生物の生産活動が継続されることにより、渦が通過する初冬期の海盆域で生物由来粒子の沈降量がピークとなったと考えられます。 本研究ではさらに、海氷の厚さの条件を変える数値実験を行い、その結果から、今回明らかになった渦活動とそれに伴う生物由来粒子の沈降が、海氷減少に伴って徐々に活発化していくメカニズムを明らかにしました(図4)。

まず、栄養塩が比較的豊富に存在するチャクチ陸棚域では、海氷で覆われる時期が短くなることで植物プランクトンの生産が促進されます。また、海水の流れを抑える蓋の役割を果たしていた海氷が減少すると、海洋表層の海流や渦などの海水の動きが強化されます。その結果、陸棚域の栄養塩の豊富な海水が渦により海盆域に多く運ばれ、陸棚水の経路上では魚類等の餌となる動・植物プランクトンの生息環境が向上します。それに伴って、生物由来粒子の海洋深層への沈降も増えると考えられます(図5)。これは北極海における「生物ポンプ」の活発化も意味します。

4.今後の展望

北極海のノースウィンド深海平原およびカナダ海盆南部において、魚類の餌となる動・植物プランクトンの生息環境が海氷の減少に伴って向上していることが本研究で明らかになりました。このことは、将来的には北極海盆域が水産資源を産み出すポテンシャルを有することを示唆するとともに、今後の地球温暖化研究において北極海の役割が見直される可能性も示しています。

今後も当海域における時系列観測の継続、数値モデルのさらなる改良、幅広い分野の研究者との連携など多方面からの研究を進めていくことで、低次生産者であるプランクトンから高次の魚類や海生哺乳類を含む北極海洋生態系の全体的な変動について、より詳細なプロセスが明らかになっていくことが期待されます。

※1 セディメントトラップ係留系:

水中を沈降する粒子を捕集する観測機材「セディメントトラップ」を、浮き球・ロープ・切り離し装置・錨を用いて任意の深さに設置する係留系。本研究では防腐剤を含む捕集瓶を約二週間毎に自動的に交換させながら通年観測を行った。

※2 渦解像海氷海洋結合モデル:

海氷海洋場の循環や熱的変化などを物理法則および経験式に基づいて計算するモデルの中でも、比較的小規模な現象を表現するには水平格子を細かく切る必要があり、北極海では格子間隔がおよそ10 km以下のものが「渦解像モデル」に相当する。対象海域が同一ならば解像度が細かいほど計算量が莫大になる。それゆえに北極海全域を対象とした「渦解像モデル」の実装は世界で数例しかなく、かつ海洋生態系モデルまで結合させたものは極めて稀である。本研究では、JAMSTEC地球シミュレータの計算機資源を利用することにより、このような先駆的な実験を行うことができた。

※3 植物プランクトンの生産活動

植物プランクトンが海水中に溶けているCO2を利用して炭素を体内に取り込むことで有機物を形成するプロセス。一定時間に一定空間内で有機物が多く形成されることを「生物生産性が高い」と言う。

※4 バラスト粒子

海洋表層で形成された有機物が海洋深層に沈降する際におもりとなる粒子。大陸棚から離れた北極海盆域では、バラストとなる珪藻の殻や鉱物などが少ないために、生物生産量に対する有機物沈降量の割合が小さいことが報告されている。

※5 COCO: Center for Climate System Research (CCSR) Ocean Component Model

東京大学気候システム研究センター(CCSR:現・大気海洋研究所)で開発された海氷海洋結合モデル。標準版では海氷厚・水温・塩分・流速といった物理変数のみを計算しており、JAMSTECとの共同によりversion 4.9まで整備されている。本研究では水平解像度5 kmで計算することにより、10 kmスケールの渦から1000 kmスケールの海洋循環など様々な海の動きを同時に表現している。

※6 NEMURO: North Pacific Ecosystem Model for Understanding Regional Oceanography

北太平洋海洋科学機構(PICES)の枠組みで開発された海洋生態系モデル。栄養塩から動・植物プランクトンまでの低次栄養段階の生態系変数を計算し、標準版では魚類・海生哺乳類は扱わない。元々は北太平洋海域を対象に開発が進められてきたが、本研究では北極海の海洋生態系を表現するために改良を加えている。

※7 北極海の渦:

人工衛星では中分解能撮像分光放射計MODIS、数値実験ではCOCOなどによって、北極海の太平洋側で見られる渦の特性について報告されてきた。現場観測については、2011年8月26日に発表されたJAMSTECプレスリリース(2010年「みらい」北極航海で観測された巨大暖水渦と生態系へのインパクト)も参照のこと。
図1

図1: 研究対象海域およびその周辺地勢

本研究ではカナダ海盆の西側に位置するノースウィンド深海平原(NAP; 北緯75度、西経162度)にセディメントトラップ係留系(左下の模式図参照)を設置。左上図は生物ポンプの概念図。セディメントトラップによる現場観測は北極海でもこれまでに数ヵ所で行われてきたが、太平洋起源水の下流域にあたるNAP周辺で複数年に渡って実施されたのは今回が世界で初めてである。

図2

図2: NAP地点における生物由来粒子の沈降量

短波放射と海氷密接度の時系列はNCEP-CFSR再解析データから作成。夏季だけでなく、極夜時期の10~12月に沈降量極大が見られる。右側は動物プランクトンの顕微鏡写真で、「生体」はJAMSTEC海洋地球研究船「みらい」のプランクトンネット観測で捉えられたもので、「試料中の個体」はセディメントトラップで捕集されたもの。

図3

図3: 初冬期の海洋深層への生物粒子輸送

(左図)1300m深での水平分布とNAP地点での時系列。トラップ観測結果(棒グラフ)と同様に夏と初冬のダブルピークを再現している。モデル結果(実線)で夏季ピークの位相が遅れているのは海氷底面に生息するアイスアルジー(※)を扱っていないことに起因する。(右図)8月中旬の100m深における水温と海洋流速場、および渦の移動経路。番号が各月を表す("6”が6月15日の渦の位置)。一部の冷水渦はカナダ海盆域を時計回りに流れるボーフォート海流によって西側に運ばれ、11月中旬にNAP周辺を通過している。

※アイスアルジー: 海に浮かぶ氷の底に付着する珪藻の一種で、氷が融けるとともに海の中に落ちて、他の生物の餌にもなります。

図4

図4: 海氷条件を変えた数値実験結果

(左図)モデル計算で得られた10月1日の海氷分布。“2010M”が標準実験、”Ice2.0”、”Ice0.5”は実験初期の海氷厚をそれぞれ2倍,0.5倍した結果。Ice2.0ケースは1990年代、Ice0.5ケースは最少海氷面積を記録した2012年よりやや多い海氷量に相当。(右図)カナダ海盆南部(左図の青ラインで定義)で領域平均した11月の沈降粒子量。200m深ではIce2.0ケースに比べて、Ice0.5ケースで2倍に増えており、最近20年間で同程度の変化があったことが推察される。

図5

図5: 海氷減少に対する海洋生態系の応答を示した模式図

海氷で覆われる時期が短くなることで、水深の浅い大陸棚上では生物生産が活発化、水深の深い海盆域では渦活動および海流が強化することで海洋深層への有機物沈降が増加していると考えられる。

独立行政法人海洋研究開発機構
(本研究について)
地球環境観測研究開発センター 北極域環境・気候研究グループ 研究員
渡邉 英嗣
地球環境観測研究開発センター 海洋生態系動態変動研究グループ 主任研究員
小野寺 丈尚太郎
(報道担当)
広報部 報道課長 菊地 一成
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