明治三陸地震(1896年)による津波来襲の様子を伝えた錦絵(多色刷りの浮世絵版画)の一部。小国政(こくにまさ)という浮世絵師によって描かれた。地震からわずか2週間ほどで印刷・発行されており、義援金などによる救済を呼びかけている。
出典/「明治丙申三陸大海嘯之実況」(東京大学総合図書館所蔵)

がっつり深める

東日本大震災から10年

<第4回>広域の被害をもたらした「2段階」の津波

記事

取材・文/藤崎慎吾(作家・サイエンスライター)

2011年3月11日からしばらくの間、テレビ画面に映るのは逆巻く黒い波と、押し流される家や車ばかりでした。直接、被災地を見ていなくても、その映像だけで大きなストレスを抱えた人は多いでしょう。

私は震災から約1ヶ月後に宮城県亘理町で、津波の爪痕を目の当たりにしました。まだ余震が活発に続いており、空気が禍々しく張りつめている中で、恐怖に鼓動が高まったのを覚えています。津波警報を聞き逃さないために、現場ではラジオをずっとつけっぱなしにしていました。

単に波が大きかったというだけで、あの大惨事がもたらされたわけではありません。三陸のリアス式海岸から仙台平野に至る広域の浸水には、地震の起きかたや波の性質など、様々な要因が関わっています。今回はその詳細と、津波被害の軽減を目指す研究の一つを紹介します。

亡くなったはずの妻に会った男

民俗学者の柳田國男(1875~1962年)は、岩手県遠野地方の伝承を集めた『遠野物語』の中で、次のようなエピソード(第99話)を紹介しています。

1896年6月15日に起きた明治三陸地震の津波で、妻と子供を失ってしまった福二(ふくじ)という男が、残された子供2人とともに海岸の小屋で暮らしていました。そこは、もともと自分の屋敷があった場所(現在の岩手県山田町田の浜地区)でした。いったんは逃げたのでしょうが、あえて戻ってきたわけです。

小屋をかけて1年ほどが過ぎた初夏、ある月夜の晩に福二は渚を歩いて便所(おそらく共同便所)へ向かいました。すると霧の中から男女の二人連れが近づいてきます。見ると女のほうは亡くなったはずの妻でした。

思わず跡をつけて福二は声をかけます。すると女は振り返って、にこりと笑いました。男のほうは、やはり津波で亡くなった同じ村の人です。女が福二と結婚する前、互いに深く心を通わせていた相手だと聞かされていました。

「今はこの人と夫婦になっています」と女が言うので「子供は、かわいくないのか」と福二が返すと、女は少し顔色を変えて泣きだしました。福二のほうも情けなくなってうつむいているうちに、二人は足早にそこを立ち去ってしまいます。以下、原文を引用しましょう。

「追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中(みちなか)に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。其後(そのご)久しく煩(わずら)ひたりと云へり」

少し追いかけてみましたが、相手は死んだ人なのにと気づいてやめ、夜明けまで道に立ちつくしてあれこれ考え、朝になって帰りました。その後しばらく(心を)病んでいたといいます。

写真
明治三陸地震の津波で浸水した集落(撮影地不詳) 提供/宮内省(現・宮内庁) – 吉川弘文館『明治の日本』より

名著の誉れ高い『遠野物語』の中でも、とりわけ味わい深いエピソードの一つです。福二は実在の人物で、柳田に遠野の伝承を語り聞かせた作家、佐々木喜善(1886〜1933年)の大叔父に当たります。この生々しい話は、実体験として福二から佐々木へ直接、伝えられたのではないでしょうか。

福二の子孫は今でも、山田町で暮らしているようです。毎日新聞(2012年3月11日)や朝日新聞(2018年4月23日〜5月1日)の報道によると、ひ孫に当たる人は、東北地方太平洋沖地震(以下、東北沖地震)の津波で母親を亡くしました。父親や祖母が『遠野物語』のことをあまり話したがらなかった一方、母親は「先祖のことだから、しっかり覚えておけ」と本を買うように勧めてくれたことがあったそうです。

その母親が津波で亡くなった。何という巡り合わせでしょうか。その残酷さというか、やるせなさには、福二の縁者でなくとも嘆息せざるをえません。

似て非なる明治三陸地震と東北沖地震

三陸沿岸は、このように度々、津波の被害を受けてきました。近年になってからだけでも、明治三陸地震の後は1933年の昭和三陸地震、1960年のチリ地震、そして2011年の東北沖地震と続きます。ただ、これらの地震と、それが引き起こした津波には、それぞれ顕著なちがいがあります。チリ地震は南米で起きたので当然ですが、明治三陸、昭和三陸、東北沖の三つは同じ日本海溝周辺で起きながら性質が異なっていました。

中でもよく比較されるのは、明治三陸と東北沖です。明治三陸の津波は、陸を駆け上がった高さ(遡上高)が最大で38.2mに達し、約2万2000人の死者と約4400人の負傷者を出しました。一方、東北沖の津波の遡上高は最大で40.5m、死者と行方不明者を合わせた数が約2万2000人、負傷者が約6200人です。これだけを見ると、両者はよく似ています。

しかし明治三陸のマグニチュード(M)は8.2、震度は最大でも4程度でした。東北沖はM9.0と約16倍の規模で、最大震度は7です。そして明治三陸の死者が岩手県では約1万8000人、宮城県では約3500人である一方、東北沖の死者・行方不明者は岩手県で約6000人、宮城県で約1万2000人と逆転しています。こうしたちがいは、いったい何によって生じたのでしょうか?

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破線で囲まれた範囲が、明治三陸地震(橙色)、東北沖地震(紫色)、昭和三陸地震(緑色)の、おおよその震源域。黄色い星印は東北沖地震の震央を示す。

悲しみより先に驚きでしかなかった

今回、津波について色々とお話をうかがったのは、海洋研究開発機構(JAMSTEC)海域地震火山部門地震津波予測研究開発センター副主任研究員の今井健太郎さんです。東北沖地震が起きた当時、今井さんは東北大学の助教でした。研究員をしていた東京大学から移って、半年ほど経ったころだといいます。

その今井さんをまず襲ったのは3月9日の前震でした。第2回で触れた通りM7.3でしたが、研究室が11階という高さにあったせいか、けっこう揺れて、本棚の中身が全部、落ちてしまったそうです。津波も少し出たので調査に行こうかと上司に相談しましたが、その必要はないと反対されました。もし反対されずに沿岸へ出かけていたら、2日後の本震で命を落としたかもしれません。

当時は「貞観(じょうがん)地震」という、平安時代前期の869年に東北沖で発生したとされる巨大地震が話題になり始めていました。『日本三代実録』(901年)という歴史書には記されているのですが、事実かどうかはっきりしていなかったところ、過去の津波堆積物の調査などによって、ほんとうに起きたらしいとわかってきたのです。

それを知っていた今井さんですが、3月9日の前震が起きた日は「1000年に1回、巨大地震が起きると言っているけど、まあ僕らは見られないだろうな」と思っていたそうです。そして3月11日、研究室で本震に襲われました。せっかく片づけた本棚ですが、中身が落ちるどころか、それ自体が倒れてしまったそうです。

1週間後、今井さんは北上市を拠点にしながら、三陸沿岸を視察しました。「大槌は大量の瓦礫が打ち上がって、津波火災とかも出ていました。一方で陸前高田は鉄筋コンクリートの建物は残っていますけど、それ以外はほとんど残っていなかったんです。津波の戻り流れで、瓦礫は全部、海に流されて、もうほんとうに廃墟でした。そういう状況を見てわいたのは、悲しいという感情より先に、驚きでしかなかった」と振り返っています。

プロフィール写真

今井健太郎(いまい・けんたろう)

1976年、東京都生まれ。秋田大学大学院工学資源学研究科生産・建設工学専攻修了。博士(工学)。専門は津波工学。2020年より現職。基本的には陸上の津波の 振る舞いに関心があり、学生時代は主に室内実験を中心とした研究を進めていたが、最近では過去の津波履歴調査など野外での調査が中心になりつつある。現在は日本中世の戦乱時に起きた地震津波災害に興味があり、特に1495年明応関東地震の全貌を暴くための方法を考えると夜も眠れない(のであまり考えずに寝ている)。撮影/藤崎慎吾

港に来てやっと大きくなる波

ここで改めて「津波」とは何かをおさらいしてみましょう。「津」は「港」という意味です。例えばチリ地震による津波の場合、沖合ではせいぜい数cmの高さしかありませんでした。だから見ていても気づきません。しかし港に近づくと数mの高さになりました。「港に来てやっと大きくなる、という意味で津波なんですよ」と今井さんは言います。

津波は地すべりや火山の噴火、隕石の衝突などによっても起きますが、ほとんどの原因は地震です。地震による断層のすべりで海底が短時間に隆起したり、沈降したりすると、その上の海水も動かされます。お風呂の中で手を大きく上下に動かすと、水面も盛り上がったり、へこんだりしますが、それと同じことです。

海面の盛り上がりやへこみは、津波となって周囲に伝わっていきます。この時、海面から海底に至る全ての海水が移動しています。このような波は波長(波の山から山、または谷から谷の長さ)が数十kmから数百kmもあります。また周期(一つの波の山が来て、次の波の山が来るまでの時間)も数分から数十分と長くなります。

津波の移動速度は水深によって変わります。深いところほど速く、浅いところほどゆっくり進むのです。海溝付近の例えば水深5000mで発生した津波は旅客機並みの速度ですが、陸に向かって浅い方へ進んでいくと、次第に遅くなります。港の直前では、原動機付自転車や短距離走選手くらいの速度です。

先を走る波が遅くなっていくと、後続の波が追いついてきます。すると、どんどん押し上げられるようにして波は高くなっていきます。こうして最初は数cmしかなかったのが、港に近づくと数mになったりするのです。

津波についての概要。プレート境界で発生した地震により海底が隆起(あるいは沈降)すると、その動きが海水に伝わって波が起きる。陸側へ進んだ波は、水深が浅くなるにしたがってスピードが遅くなる一方、後続の波が追いついて高さを増していく。
出典/地震調査研究推進本部

津波が陸上に到達すると、周期が長いので数分から数十分も海水は押し寄せ続けます。見た目にはもはや波というより「流れ」でしょう。海面から海底までの海水全部が動いていますから、その水の量と勢いは膨大です。そして時には内陸へ何kmも広がるのです。

一方で普通の波浪は風によって起こされます。お風呂で水面に息を吹きかけた時にできるさざ波と同じです。この場合は表面の水だけが動いています。波浪の波長は数mから数百mと短く、周期も長くて数十秒です。たとえ何mという高さの波が港に打ち寄せたとしても、すぐに引いてしまうため、広域な被害をもたらすことはありません。また表面の水だけなので、勢いも弱いと言えます。

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