がっつり深める

東日本大震災から10年

<第6回>伊達政宗は「巨大地震」を見たか?(後編)  

日本で被災したスペイン人探検家

歴史的な地震や津波の研究をする時、蝦名さんは史料に何が書かれているかばかりでなく、その史料の成立過程や背景なども調べます。なるべく同時代の史料、信頼のおける史料を使いたいのはもちろんですが、それだけでは情報が限られてしまいます。たとえ後年に書かれた史料、あるいは記述に混乱があるような史料でも、その背景をひもといていくことによって、有用な情報を得られる可能性があります。

「地震の記録だけではありません。地震が発生した時期の史料を広く見ることで、当時の時代状況を再現し、地震や津波の被害があった時に、どのような人々の営みや社会の動きがあったのかを見出していくのが、我々、歴史研究者の仕事になっていくと思います」と蝦名さんは言います。「地形復元」で記録や伝承を検証したのも、そうした手法の延長にあると言えるかもしれません。

慶長奥州地震については『駿府政事録』以外にも、多くの史料が残されています。重要かつユニークなものとしては、スペイン人探検家のセバスティアン・ビスカイノ(1548〜1616年)が残した『ビスカイノ報告』です。何と外国人が、日本で津波に遭遇していました。

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スペイン人の探検家、セバスティアン・ビスカイノ。1609年に上総(千葉県)海岸で遭難した当時のフィリピン総督(スペイン人)が、江戸幕府によって無事に送還されたことへの謝意を表する使節として来日。1611年から翌年まで日本沿岸の測量を行ったが、本国への帰途に暴風雨で船を失った。1613年、伊達政宗がスペイン国王やローマ教皇のもとに派遣した慶長遣欧使節の船に同乗し、帰国した。

ビスカイノは日本との通商交渉や、当時、日本近海にあるとされていた伝説上の島を探すといった使命を帯びていました。来日すると家康の許可と政宗の支援を得て、仙台藩の沿岸を調査することになりました。彼はスペインと日本の交易に使える良港を得ようと測量をしていたのですが、越喜来(現在の岩手県大船渡市三陸町)という村の沿岸で奇妙な光景を目にしました。村人たちが大声で叫び合いながら、小山の方へ逃げていくのです。やがてビスカイノらは、その理由に気づきました。

「海水が1ピカ(1picaはおよそ3.89m)を越える高さになっていたのが原因だったのである。これは、この土地(越喜来)で発生した大地震によってもたらされたものだった。(この津波は)一時間も続き、非常に強力な勢いで流れ込み、村落、家々、稲の束を水浸しにした*」

  • 蝦名裕一・高橋裕史「『ビスカイノ報告』における1611年慶長奥州地震津波の記述について」歴史地震(2014)より引用

ビスカイノらは大波に飲まれそうにはなりましたが、辛くも越喜来村に漂着しました。そこで難を逃れた家々に歓待してもらえたと書いています。この点が不自然だとして、『ビスカイノ報告』の信憑性を疑う研究者もいるようです。大津波で混乱している村に歓待されるはずがない、というのが根拠です。これについても蝦名さんは周辺の史料等から検討しました。

まず三陸のようなリアス式海岸では、同じ集落内でも居住地に高低差があります。東北沖地震でも川沿いの低地は被害が大きかった一方、高台の家屋は比較的、残っていました。歴史的に肝入(きもいり)や網元(あみもと)といった地域の有力者は高台に住んでいることが多く、慶長奥州地震の時も無事だった可能性があります。

また1761年に成立したとされる『気仙風土草』という史料によると、越喜来村で代々、肝入を務めてきた旧家の先祖には、関ヶ原の合戦で伊達政宗と共に戦った人物がいるようです。こうした縁があるので、ビスカイノの調査航海に際しては、越喜来村の肝入や村役人にも物資の補給や歓迎の用意が政宗から命じられていたでしょう。以上のことから被災地でビスカイノらが歓待を受けたとしても、不自然ではないと蝦名さんは考えています。

実際、他のより甚大な被害を受けた村(現在の岩手県陸前高田市気仙町)では、仙台への帰途にあったビスカイノらも、泊まる場所さえ見つけられなかったと記録しています。こうした状況は日本側の史料でも裏づけられ、『ビスカイノ報告』の信憑性に問題はないようです。むしろ地震や津波の状況を伝聞ではなく、実際に体験した外国人が書いているという、非常に貴重な史料だと言えるでしょう。

地震の名前が過小評価につながった?

『駿府政事録』や『ビスカイノ報告』を含めて、慶長奥州地震に関連した史料や記録は、北海道から三陸、仙台平野を経て福島県の沿岸にまで分布しています。江戸でも大地震が起きたとする記録が残されています。

慶長奥州地震に関しては、各地に史料が残されている。このうち『駿府政事録(駿府記)』と『ビスカイノ報告』は地震と同じ時代に成立した貴重な史料である。
提供/蝦名裕一 氏

「史料上、少なくとも岩手県宮古から福島県沿岸にかけては大津波が襲って、かなりの人が亡くなっています」と蝦名さんは言います。「仙台藩で1783人、福島県の相馬で約700人、それから岩手県の津軽石とか大槌とか、その辺りでだいたい2000人くらいの死者が出ているということで、合わせていくと5000人くらいの死者になります。江戸時代の日本の人口は3000万人程度ともいわれていますので、生命の喪失という点からみれば、東日本大震災と変わらないぐらいの被害規模というイメージになります」

20世紀前半に活躍した地震学者、今村明恒(1870〜1948年)も「慶長津波」が明治三陸地震(M8.2)の津波より30〜40%大きかったとしています。となると貞観地震や東北沖地震の津波と同程度だった可能性があります。ところが近年は、なぜか昭和三陸地震(M8.1)の時と同程度とされるようになっていました。

この原因ははっきりしないのですが、蝦名さんは名前にも問題があるのではないかと考えています。本記事ではずっと「慶長奥州地震」としてきましたが、実は一般的には「慶長三陸地震」と呼ばれることが多いのです。今村明恒はその言葉を使っておらず、誰がいつそう呼び始めたのかはわかりません。

いずれにしても「三陸」という地方名自体、明治時代以降に成立したもので、江戸時代以前にはありませんでした。また、その地域に福島県沿岸部は含まれていません。したがって歴史的にも、被害範囲を示す意味でも、不正確な名称だと蝦名さんは言います。そして、その「三陸」という言葉のイメージが、過小評価につながったのではないかというわけです。

「奥州」という言葉は江戸時代以前からあり、現在の青森県から福島県までの東北地方太平洋側を示しています。つまり史料に示される1611年12月2日の被災地が全て入ります。そこで今後は「慶長三陸地震」ではなく「慶長奥州地震」にするべきだと蝦名さんは主張しています。それが功を奏してか、最近、過小評価の認識は改まりつつあるようです。

一方、享徳地震については本記事前編で述べた通り、今のところ史料があまりありません。最も詳しい『王代記』でも数行で、この点は慶長奥州地震と対照的です。それでも貞観地震並みの規模ではなかったか、とされることがあります。東北の巨大地震が500〜600年周期で起きるという見方との関係で、過大評価されている可能性はないのでしょうか。

まだ慶長か享徳かは判断がつかない

ここでまた地質学的な見地に戻ってみます。津波堆積物の中に慶長奥州地震の痕跡は、残っているのでしょうか。地震調査研究推進本部のホームページには、次のように書かれています。

「宮城県から福島県にかけての太平洋沿岸では、東北地方太平洋沖地震を除くと過去3,000年間で4回の巨大津波による津波堆積物が見つかっています。このうちの1回は869年の貞観地震によるものとして確認され、1回は1611年の慶長三陸地震(Mw8.4~8.7)または1454年の享徳地震(Mw8.4以上)によるものと考えられます。他の2回(4~5世紀、紀元前4~3世紀)についてはその津波堆積物の分布から同様の地震である可能性があります**」

  • *https://www.jishin.go.jp/regional_seismicity/rs_kaiko/rs_tohokuoki_eq-type/より。引用文中「Mw」はモーメントマグニチュードのこと。

つまり東北沖地震と貞観地震との間に津波堆積物はあるものの、それが慶長奥州地震(上では慶長三陸地震)と享徳地震のどちらによるのかは特定できていないようです。また蝦名さんも参加した岩手県沿岸の津波堆積物調査(2016年)でも同様な結果を得ていますが、やはり地層そのものから慶長奥州地震か享徳地震かを特定してはいません。史料上、三陸に津波が来たのは確実だということで、慶長奥州地震に比定しています。

宮城県岩沼市教育委員会の調査によって発見された津波堆積物のある地層。いちばん上の白っぽい第1層は東北沖地震で堆積した。第4層と第8層も津波堆積物の可能性がある。放射性炭素年代測定などの結果から、第4層の年代は16〜17世紀ごろ、第8層は8〜9世紀ごろと推定している。
提供/岩沼市教育委員会
「新菱沼津波堆積物地層」
https://www.city.iwanuma.miyagi.jp/kanko/bunkazai/documents/sinnhisinuma.pdf

本記事前編でお話しした通り、海底の地層でも東北沖地震と貞観地震に比定されるタービダイト層の間に、もう一つタービダイト層があります。それを海洋研究開発機構(JAMSTEC)海域地震火山部門地震発生帯研究センター上席研究員の金松敏也さんは、地磁気による年代測定から享徳地震によるものではないかと考えました。しかし「実は1400年だか1600年だかは、このレベルだと判断がつかないというのが、本当のところだと思います」と金松さんは言っています。

「このレベル」というのは年代測定の精度です。もともと地磁気による年代測定は、琵琶湖の調査で得られた「物差し」を利用しています。その物差しに使われている放射性炭素年代測定は現在、最も信頼されている年代測定法ですが、それでも100〜200年の誤差が出ることはあります。津波堆積物でも慶長奥州地震か享徳地震かを区別できていないのは、その問題があるからです。

一方、タービダイトの磁気も、マグネタイトが海底に溜まってから、きちんと同じ方向を向くまでに100年ほどかかる場合があります。途中で生物などにかき乱される可能性があるからです。さらに、その磁気の向きを物差しに当てはめる時に、ずれが生じるかもしれません。このように大きな誤差を生む要因は、いくつもあるわけです。年代測定の精度を上げていくことは、金松さんの主要な研究テーマの一つです。

もし東北沖地震と貞観地震との間にある津波堆積物やタービダイトが慶長奥州地震によるものだとしたら、貞観と慶長との間は742年、慶長と東北沖との間は400年なので、巨大地震の周期が500〜600年ではないかという予想はぐらついてきます。

また慶長と享徳、どちらも起きていて、どちらも巨大だったが、たまたま地質学的には一方の証拠しか得られていないのだとすると、さらに複雑なことになります。貞観と享徳との間が585年、享徳と慶長との間が157年、慶長と東北との間が400年ですから、そもそも周期というものがあるのかどうかもわからなくなってきます。一方で金松さんが見出した「巨大地震の間隔が短くなっている可能性」も頭をよぎります。

「自然というものを、自分たちが予測できるものだと考えた結果が、東日本大震災につながった面は否めません」と蝦名さんは言います。「東日本大震災では、我々が自然をまだまだ理解しきれていないことを思い知らされました。東北地方各地に残る慶長奥州地震津波を記録した史料は、いわば先人からのメッセージなのです。そこに記された警告を謙虚に受け止めて、色々なパターンを想定しうると考えたほうがいいでしょう」