がっつり深める

東日本大震災から10年

<第6回>伊達政宗は「巨大地震」を見たか?(後編)  

逆転の発想と洞察力による復興事業

最後に慶長奥州地震の後、どのような復興事業が行われたかについて、少しだけ触れておきましょう。といっても現在の私たちから見て「復興事業」と思えることです。当時の人々がどう感じていたかは、わかりません。

私は2011年4月に宮城県亘理町へ行った時、農家の人が荒れ果てた田畑を眺めながら「ここがまた使えるようになるのは、土を全部入れ替えたりしても5年後だ」とつぶやくのを聞きました。津波による塩害のためです。

同じことは慶長奥州地震でも起きたはずですが、それを逆手にとって復興につなげた人物がいました。伊達政宗に仕えていた武将の一人、川村孫兵衛重吉(1574〜1648年)です。優れた土木技術者で北上川の治水工事や、阿武隈川と名取川を結ぶ水路の開削など、多くの実績を残しました。もともとは長州(現在の山口県)出身で、初めは毛利家に仕えていたようです。

孫兵衛は知行地として政宗から名取郡早股村(現在の岩沼市玉浦)を与えられ、自分で湿原などを開発して水田に変えていました。そこが津波に襲われたときは、さぞがっかりしたことでしょう。土を全部入れ替えたとしても5年ですから、何もしなければ再び水田として使えるまでに何年かかるかわかりません。

そこで孫兵衛が始めたのは、塩田開発でした。つまり塩害で農業には適さなくなった土地を、塩づくりに転用したのです。しかも、その時には「入浜式塩田」という効率のいい製塩法を導入しました。瀬戸内海沿岸で始められた当時の最新技術ですが、長州出身ということで知識があったのでしょう。これが大成功しました。

赤穂市立海洋科学館(兵庫県)で、見学・体験用に復元された入浜式塩田と釜屋。入浜式の前に行われていた揚浜式では、人が浜で汲んだ海水を塩田に運び、広げた砂の上に撒いていた。入浜式では潮の干満差を利用して塩田に海水を引き入れ、毛細管現象で砂を湿らせる。このため手間を大幅に減らすことができた。その後の工程はどちらも同じで、天日と風で砂が乾いたら「沼井(ぬい)」と呼ばれる濾過装置に集め、上からさらに海水をかけて、濃度の高い塩水(かん水)をつくる。それを塩釜で煮詰めて、塩の結晶を得た。
663highland, CC BY-SA 3.0
(http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/), via Wikimedia Commons

それまで仙台藩では塩をほとんど生産しておらず、他領から買い入れていました。つくっていたとしても「藻塩焼き」という昔ながらの、大量生産には向かない方法でした。

孫兵衛は同じく長州出身の浪人らとともに、仙台領内の各所で塩田開発を進めました。同時に製塩法や、それに必要な道具のつくりかたなどを人々に広め、そこから生活の糧が得られるようにしました。その中には津波で農業ができなくなっていた人もいたことでしょう。こうした「復興」事業が功を奏し、やがて塩の生産は藩の主要産業に育ったのです。政宗も「これこそが仙台藩の宝である」と喜び、孫兵衛らの功績を讃えました。

「津波で被害を受けた沿岸部は、塩害でしばらく農業ができません。それならば海を利用して塩を生産してしまおうという逆転の発想です。そこには現代の我々が、ともすれば忘れてしまっている自然に対する深い洞察力が生かされていると思います」と蝦名さんは言います。

孫兵衛の婿養子である二代目・孫兵衛も優れた土木技術者で、仙台藩内の堀や堰などの整備に活躍する一方、海岸林の植樹事業を進めました。津波から数十年を経て再び農業は可能になっていましたが、海浜の水田が潮害に苦しんでいるのを見て、数千株のクロマツを植えたのです。いわゆる防潮林で、海からの潮風や砂による被害を和らげてくれます。

蝦名さんが絵図でその場所を調べたところ、名取郡と亘理郡の海岸線だったらしいことがわかりました。クロマツという樹種は海岸林としては最適で、潮害に強く、痩せた土地のほうがよく生育し、深く根を張ります。また松脂を多く含んでいるため、燃料にも適しています。人々の生活にはもちろん、塩田の釜で塩水を煮詰めるのにも使われたことでしょう。これも広い意味で、震災後の優れた産業振興策だったのではないでしょうか。

元禄14年(1701年)の「仙台領国絵図」には、沿岸に松林が描かれている。
提供/宮城県図書館

よみがえりつつある防潮林、だが……

この防潮林は東北沖地震が起きる前まで、黒々とした森のように広がっていたはずです。亘理町ではその森に守られて、イチゴのビニールハウスなどが並んでいたことでしょう。しかし津波で防潮林は8割ほどが失われました。

私は地震の約1ヶ月後に、たまたまその現場を訪れています。多くの木々がなぎ倒されている一方、傾きもせず踏みとどまっている木々もありました。その向こうには、誰もいない砂浜と海が広がっていました。これはおそらく、それまであった堤防が津波で流失・破壊された結果、見通しがよくなっていたのだろうと思われます。

現場にいた時には恐怖しか感じていませんでしたが、今、改めて自分が撮った写真を眺めてみると、遠く江戸時代にまで時間を遡った気分にもなります。堤防が築かれる前の砂浜と森しかなかった海岸が、頭に思い浮かぶのです。そこには、そぞろ歩きに最適な美しい眺めがあったのではないでしょうか。


2011年4月8日に、宮城県亘理郡亘理町吉田砂浜で撮影した。津波で防潮林の多くはなぎ倒されているが、真っ直ぐに立っている木もある。
撮影/藤崎慎吾

2015年からボランティアによる植樹が進められ、亘理町の防潮林は復活しつつあります。長年、親しんできた風景や生活という「宝」を、地域住民が自発的に取り戻そうとしているのです。

東北大学で蝦名さんを取材した後、私は駆け足で亘理町の海岸を再び訪れました。確かに森は蘇りつつありました。しかし木々の間を海岸の方へ抜けていくと、突然、真新しいコンクリートの堤防が高々と立ちふさがりました。

現在の亘理町吉田砂浜の防潮林。堤防の上から撮影した。植えられた若木が手前に並んでいる。
撮影/藤崎慎吾

砂浜や海は、もうどこにも見えません。階段を上って堤防の上に立つと、ようやく打ち寄せる波が目に入ってきました。かつては一体だったであろう浜と森は分断されています。この風景を眺めたとしたら、川村孫兵衛は何を思うでしょうか。私はいささか複雑な思いを抱きながら、夕闇の迫る森と海を後にしました。(次回に続く)

藤崎慎吾(ふじさき・しんご)

1962年、東京都生まれ。米メリーランド大学海洋・河口部環境科学専攻修士課程修了。科学雑誌の編集者や記者、映像ソフトのプロデューサーなどを経て、99年『クリスタルサイレンス』(朝日ソノラマ)でデビュー。同書は早川書房「ベストSF1999」国内篇第1位となる。現在はフリーランスの立場で、小説のほか科学関係の記事やノンフィクションなどを執筆している。近著に《深海大戦 Abyssal Wars》シリーズ(KADOKAWA)、『風待町医院 異星人科』(光文社)、『我々は生命を創れるのか』(講談社ブルーバックス)など。ノンフィクションには他に『深海のパイロット』、『辺境生物探訪記』(いずれも共著、光文社)などがある。