2011年4月8日に、宮城県亘理郡亘理町吉田砂浜で撮影した。津波で電信柱は倒されているが、クロマツを中心とする防潮林の一部は残っていた。仙台平野沿岸の防潮林は、伊達政宗の時代に造成が始められたとされている。東北地方太平洋沖地震の津波で、亘理町では8割の防潮林が失われた。しかし、その存在は津波の勢いの軽減や、漂流物の流入を防ぐなど、一定の減災効果をもたらしたと評価されている。2015年からボランティアを中心に再生事業が進められ、2020年までにクロマツを含む多様な樹が4万本以上、植えられた。
撮影/藤崎慎吾

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東日本大震災から10年

<第6回>伊達政宗は「巨大地震」を見たか?(後編)  

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取材・文/藤崎慎吾(作家・サイエンスライター)

戦国武将の中では、トップ3クラスの人気を誇る伊達政宗(1567~1636年)。「独眼竜」という、いかにも勇猛そうな異名で知られていますが、仙台藩の初代藩主として政治にも辣腕をふるいました。スペイン国王やローマ教皇に対しては「奥州の王」として使節も送っています。

その政宗は1611年「慶長(けいちょう)奥州地震」という大地震に遭遇しました。津波が広く東北沿岸を襲い、5000人規模の人命が失われたと言われています。この地震は、従来の研究では1933年の昭和三陸地震くらいだったとされていましたが、最近は2011年の東北地方太平洋沖地震(以下、東北沖地震)に匹敵する規模ではなかったかと議論されるようになりました。一方で近年、新たに確認された1454年の「享徳(きょうとく)地震」も、東北を襲った巨大地震ではないかと注目され始めています。

私達はこうした過去の(巨大)地震をどうとらえ、何を学べばいいのでしょうか。今回は前編と後編に分けて、地質学と歴史学の両方から考えてみることにします。

聞き流してしまった大津波の伝説

前編で貞観(じょうがん)地震や享徳地震については史料の話をしましたが、有史以降に起きた過去の地震については、自然科学ばかりでなく人文科学的な研究も重要です。東北大学災害科学国際研究所准教授の蝦名裕一さんは、地震を専門とする数少ない歴史学者の一人です。

実は東北沖地震が起きるまで、蝦名さんは地震の研究をほとんどしていませんでした。もともとの専門は日本近世史、江戸時代の藩政史や政治思想の研究でした。

「当時は、地震のことは自然科学の分野だから、人文社会学である歴史学の範疇ではなく、地震の学者さんたちがやるんだろうと考えていました」と蝦名さんは振り返ります。

2009年ごろ、蝦名さんは仙台空港がある宮城県岩沼市の市史編纂室で、調査の仕事をしていました。ある時、そこに市の要職にある人が現れて「伊達政宗の時代に、岩沼に大津波が来たという伝説があるんだけど、そういうことは知っている?」というように聞いてきたそうです。当時の蝦名さんは専門とする時代が若干ちがっていたこともあって、あまり関心がわかず「そのうち調べておきます」程度で話を済ませました。それっきり、ほとんど忘れていたのです。

プロフィール写真

蝦名裕一(えびな・ゆういち)

1975年、青森県生まれ。東北大学大学院国際文化研究科修了。博士(国際文化)。専門は日本近世史。東北大学東北アジア研究センター教育研究支援者、東北大学災害科学国際研究所助教を経て、2015年より東北大学災害科学国際研究所災害文化研究分野准教授、現在に至る。主に東北地方を中心とした歴史災害の研究、特に歴史資料を活用した文理融合型の学際的歴史災害研究に取り組んでいる。著書に『慶長奥州地震津波と復興―400年前にも大地震と大津波があった』蕃山房、2014年。撮影/藤崎慎吾

そして2011年3月11日、東北大学の川内北キャンパスにいた蝦名さんを、巨大地震が襲いました。東北アジア研究センターという施設で、史料の整理や保全についての原稿をまとめているところでした。停電した研究棟から避難し、携帯のワンセグで東北沿岸に押し寄せる津波を目にした時、2年前に岩沼で聞いたことが脳裏によみがえりました。「このことだったのか!」と思ったそうです。

学生時代、古文書の調査で何度も通った岩手県の大船渡市や気仙沼市、そして半年間、中学校の教師をしていた福島県双葉町など、思い入れのある場所が軒並み大きな被害を受けました。「津波が昔このあたりに来ていたと聞いていながら、その研究に取り組もうとしなかったことをすごく後悔しました」と蝦名さんは言います。「もし震災前に研究して、史料に残された先人の警鐘を見いだせていれば何かできたのではないか――そういう思いは、今でもどこかでありますね」

過去の地形を復元して伝説を検証する

さて、岩沼で蝦名さんが聞いた「伝説」は『駿府政事録』という史料に載っています。これは徳川家康(1542~1616年)の側近だった後藤庄三郎光次(1571〜1625年)か、儒学者の林羅山(1583~1657年)によって書かれたとされています。

『駿府政事録』の津波について書かれているページ。
撮影/藤崎慎吾 東北大学附属図書館所蔵

まず、この史料には伊達政宗から家康への(家康側近を介した)報告として「政宗の領地に大波が押し寄せて、沿岸の人家がことごとく流され、5000人が溺死しました。これが世に言う津波です」と書かれています。さらに政宗の使者からの伝聞として、おおむね次のような話が記されています。

――津波が起きた日、肴がほしいと思った政宗は、2人の家来を漁村に派遣した。家来たちが漁師たちに釣舟を出すよう命じたところ、今日は海の色が異常で天気もよくないと渋られた。それを聞いて家来の1人はあきらめたが、もう1人は政宗の命にそむくことはできないと強引に舟を出させた。すると数キロ沖に出たところで、大津波に襲われた。幸い舟は沈まず波に運ばれ、漁師が住む里の山に生えている松の近くに漂着した(これを「千貫松(せんがんまつ)」という)。家来たちは、その松に舟をつないで逃げ、波がおさまってから戻ってみると、舟は松の梢まで押し上げられていた。

ここで語られている津波は、1611年12月2日の慶長奥州地震によって発生したものと考えられています。その日、政宗は仙台に滞在していたので、実際に地震や津波を体験したでしょう。「千貫松」というのは、現在の岩沼市にある千貫山にあったと見られます。海岸線から千貫山までは、7〜8kmの距離があります。

東北沖地震の時でも津波の浸水範囲は、内陸に5kmくらいでした。『駿府政事録』の記録をそのまま受け取れば、慶長奥州地震の規模は東北沖地震を上まわっていたことになります。この点に疑問を持ち、『駿府政事録』の話は「政宗の創作」だったのではないか、とする研究者もいるようです。

写真
宮城県岩沼市と亘理町における東北沖地震時の浸水範囲(赤い斜線)および千貫山の位置。 仙台河川国道事務所ホームページ (https://www.thr.mlit.go.jp/sendai/kasen_kaigan/kasenfukkou/image/201703_torikumi.pdf)を加工して作成

ただ津波というのは河川に入ると、かなりの距離を遡上します。東北沖地震の時、北上川では約50kmも遡上しました。岩沼市と亘理町の間を流れる阿武隈川でも約10km遡上し、海岸線から6km余りの阿武隈大堰にまで達しています。これだけでも千貫山にだいぶ近づきます。

そして蝦名さんが当時の絵図を調べてみたところ、阿武隈川の本流はかつて今より内陸に大きく蛇行し、千貫山の近くを流れていたことがわかりました。つまり慶長奥州地震が東北沖地震と同じくらいの規模だったら、津波が昔の阿武隈川を遡上して、少なくとも千貫山の麓には達していた可能性があります。

絵図をもとにして阿武隈川の旧河道を現代の地図に描き加えた。かつてはこちらが本流で、慶長奥州地震の津波が東北沖地震並みだった場合、千貫山の麓まで達していた可能性がある。
提供/蝦名裕一 氏

同様な例は宮古市の閉伊川にもあります。やはり慶長奥州地震の津波によって、現在の地図からすると、ほぼありえない場所に舟が漂着したという記述や伝承が残されているのです。これについても蝦名さんは昔の絵地図を探しだし、それを撮影して現在の地図データと重ね合わせ、さらに3次元化するなどして検討しました。このような手法を「地形復元」と呼んでいます。

その結果、閉伊川も昔は今より蛇行していたり、二股に分かれていたりして、かなり姿が異なっていたとわかりました。また現在は暗渠になっていて見えない支流が存在し、東北沖地震の津波がこれに沿って市街地に及んでいたこともわかりました。これらの流路を東北沖地震の時と同規模の津波が遡上したとすれば、記述や伝承を否定することはできなくなります。

蝦名さんが行っている地形復元の流れ。時には幅が5〜6mもある絵図などを撮影し、それを現在の地形データに重ね合わせる。特徴的な場所は手作業で描いていくこともある。最後は現在の地形を3次元化した上で、そこに過去の地形や河川の流れなどを描きこんでいく。
提供/蝦名裕一 氏
地形復元された前近代の閉伊川。現在より大きく蛇行しており、今は暗渠化されている支流や中洲があった。慶長奥州地震については、東北沖地震規模の津波では到達しないと思われる場所に、被災を伝える伝承や史料がある。しかし、この図を見れば川を遡上した津波が到達しうるとわかる。
提供/蝦名裕一 氏、作成/東北大学 菅原大助 氏