日本からおよそ5000キロの距離にある氷の世界、北極。私たちにとって必ずしもなじみが深いとは言えない場所ですが、今この地に研究者たちの“熱視線”が注がれていることをご存知でしょうか。その理由は「地球温暖化」。産業革命以降、北極は全球平均の約3倍の気温上昇が確認されるなど、地球全体の環境変化の兆しを知る上で重要な位置づけとなっているのです。そして、そんな北極の「今」と「これから」を調べるために、国内では新研究船の建造という大きなプロジェクトも進んでいます。海洋研究開発機構(JAMSTEC)北極環境変動総合研究センターの菊地隆センター長に、研究の最前線について聞きました。(取材・文:岡田仁志)
今、北極で何が?―北極研究の“最前線”
──JAMSTECの北極調査では、近年どのような研究成果が上がっているのでしょう。
菊地隆さん※以下敬称略:たとえば2018年には、国立極地研究所ほかとの共同研究で、北極域での気象観測が台風やハリケーンなど中緯度の気象予測の精度向上に役立つことを明らかにしました(2018年に発表した「北極域の気象観測で台風の進路予報が向上」に関する研究の詳細はこちら、2020年に発表した「ハリケーンや台風の進路予報の精度向上に北極海での気象観測強化が有効」に関する研究の詳細はこちら)。北極域での観測を増やすことで、予報で使用する大気の初期データが改善され、台風の進路に影響する大気循環の予報精度が上がるんです。
──台風が発生する地域と北極は距離的にかなり遠いですが、まさに「全体」を見ることで理解が進むわけですね。
菊地:そういうことです。また、生物や生態系に関する研究では、海洋地球研究船「みらい」による観測や実験を元にして、北極海の大陸棚で植物プランクトンの新たな大増殖現象(海底ブルーム)が起きることを2022年に発見しました(「北極海の植物プランクトンの新たな大増殖現象を発見」に関する研究の詳細はこちら)。もともと北極では、氷がとけると太陽光が海の中に入り、植物プランクトンが大増殖します。でも海の表面は栄養分がすぐに枯渇してしまうので、植物プランクトンは沈んで海底に生息する生物の栄養分になっていました。
しかし、いまは氷が大幅に減ったことで、大陸棚の底にも太陽光が届き光合成ができるようになり、栄養分が豊富な底層の海水の元で植物プランクトンのブルームが発生します。今回の発見で、今後も北極海の浅い大陸棚域では海底ブルームが次々と起こり得ることがわかりました。植物プランクトンは食物連鎖をいちばん下で支えているので、動物プランクトン、魚類、さらにはアザラシやシロクマ(ホッキョクグマ)などの海生哺乳類にいたるまで、生態系に変化を及ぼす可能性がありますね。
──今、シロクマの話が出ましたが、北極に行くと会えるんですか?
菊地:私たちのグループの研究者はアラスカ最北部にあるウトキアグヴィク(旧称バロー)という町の沿岸で海氷などの観測を継続的に行っていますが、今年の5月の調査では毎日のようにシロクマを見かけたそうです。みなさん、シロクマというと親しみを感じるでしょうけど、北海道のヒグマと同じで、下手をすれば殺されかねない危険な動物です。出没しそうなところは避けますし、人を雇って追い払ったりもしますよ。
──それはそうですよね。沿岸部での調査はアラスカで行うことが多いのですか?
菊地:アラスカ大学フェアバンクス校と長く共同研究を行っていますし、アクセスもしやすいので、アラスカがいちばん多いですね。海氷調査以外にも、フェアバンクス近郊の拠点では、氷河や永久凍土、温室効果ガス、生態系、雪氷なども長期的に観測しています。
海に潜るドローンに新研究船の建造計画も!
──今後はどのような研究や開発が行われるのでしょう。これから始まる新たな取り組みなどあれば教えてください。
菊地:数年前から、北極観測技術開発グループでは「海氷下ドローン」の開発を進めてきました。これまで難しかった氷の下の観測を広範に行うためのツールです。いまでも氷に開けた穴からセンサーを海中に下ろして観測をしてはいますが、これだと「点」でしかデータを取れません。遠隔操縦できる海氷下ドローンを使えば、「線」や「面」でデータを取ることができます。
また、氷の下側がどんな形状になっているかは、上から見てもわかりませんよね。でもJAMSTECには、音波を使って海底地形を調べる技術があります。それをひっくり返して使えば、海氷下ドローンで氷の下側のデコボコを見ることができるでしょう。それができれば、海の中の流れなどもより詳しく知ることができます。
──まだ実用化はされていないのですか?
菊地:2021年から、海洋地球研究船「みらい」の北極航海で試験を始めています。2022年の試験では、命綱をつなげた状態ではありますが海氷の下に行くことができましたし、自律モードでの航行も試験しています。今年も8月から10月まで「みらい」で北極に行き、試験を行いました。実用化に向けた取り組みを続けています。
技術的に難しいのは、位置の計測ですね。ふつうの海なら浮上してGPSとつなげば位置がすぐにわかりますが、氷があるのでそれができません。しかも北極は、コンパスがほとんど役に立たないんですよ。磁極に近いので、コンパスの向きが下に87度ぐらい立ってしまうんです。そういう環境でいかに位置を正確に計測するかは、技術者の腕の見せ所です。これが完成すれば、2026年に竣工予定の新しい北極域研究船の「分身」として、海氷下を自由自在に泳ぎ回ってくれるものと期待しています。
──新しい北極域研究船も造られているのですね。どのようなものなのでしょうか。
菊地:まず「みらい」と違って砕氷船なので、自力で北極海の海氷域の中を航行できますね。砕氷性能は南極に行く砕氷艦「しらせ」ほど高くはありませんが、北極は氷が薄いのでそれで十分です。海氷に邪魔されずに観測ができるメリットは極めて大きいです。また長さは128メートルで「みらい」とほぼ同じですが、砕氷性能を備えるため幅は23メートルと「みらい」より5メートルほど大きくなります。乗船できる人数も増えます。
──ますます北極研究が発展しそうですね。菊地さんご自身も、また北極に行かれるのでしょうか?
菊地:いまはセンター長というポジションになってしまったので(笑)、なかなか行かせてもらえないんですよ。97年に初めて行ってから、少なくとも25回以上は北極に行っているんですが、最後に行ったのはもう5年以上も前の話。もともと、雪や氷や海が大好きだから北極海の研究を始めた人間なので、現場に行けないのは寂しいですね。
──きっと、北極の氷の上に立ったら誰でも感動するんでしょうね。
菊地:それはもう、天気さえ良ければ、真っ青な空と真っ白な氷だけの世界はすばらしいですよ。雪が積もったとき、まだ誰も足跡をつけていない真っ白な道をワシワシと歩いて行くのって、楽しいじゃないですか。あの感覚を極限化したようなものですね(笑)。 それともうひとつ、北極の研究は日本単独ではできないので、必ず国際的な連携が生まれます。私もこれまで多くの外国の研究者たちのお世話になってきました。「あの人がいなかったら、いまの自分はいないな」と思える人が海外にも大勢います。そういう国際的なつながりによって科学的な知見を深めていけるのが、北極研究の醍醐味だと思っています。