がっつり深める

JAMSTEC探訪

有効数字2桁の計算機で10に0.1を10回足すには?究極の複雑系「地球」を表現する数値モデル開発者の工夫とは

記事

現在の科学では、さまざまな分野で数値モデルと呼ばれるシミュレーション予測プログラムが活躍しています。海洋研究開発機構(JAMSTEC)では、地球の気候の変化を予測する「気候モデル」や氷床の変化を予測する「氷床モデル」などさまざまな数値モデルの研究が進められています。これらのモデルの開発を行っているのが、環境変動予測研究センター、北極環境変動総合研究センターの齋藤冬樹さんです。どうすれば地球を正確に表現できるのか?その裏側にあるコロンブスの卵的発想に迫ります!(取材・文:岡田仁志)

写真
齋藤冬樹さん(撮影:神谷美寛/講談社写真部)

氷は温度が20度上がると約10倍やわらかくなる

――氷床モデルが「氷の形」がどう変化し、どのように決まるのかを予測していることですが、このモデルをつくるうえでは、現実の観測データも重要だと思います。実際には、どのような観測データを使うのでしょうか。

将来の氷床の形を計算するには、まず現在の形を知る必要がありますが、これは観測しないとわかりません。ですから、現在の氷の厚さ、降雪や融解の分布などの観測データを、氷床モデルの一種のパラメータとして入力します。

氷床モデルに使われる主なデータ(図版作成:酒井春)

ただし、必要な初期値がすべて観測で求められるわけではありません。実は、観測でわかることはかなり限られています。たとえば、氷の中の状態については、ほとんど観測データがないんです。

氷床の表面と底面では、温度もまったく違います。表面がマイナス60度だとしても、3000メートル下の底面は0度ぐらいになっていて、氷がとけていることもあり得ます。

厚い氷には毛布のような断熱効果があるので、表面の寒さが伝わりません。下にはわずかながら地熱があるので、温まる方向にしかいかないんです。

氷は温度が20度上がると10倍ぐらいやわらかくなるので、流動の計算をするうえでは内部の温度がきわめて重要な情報です。流動はほとんど底面の状態だけで決まっていると考えられるので、地面付近の氷の様子を見るのがいちばん大事なんです。

観測できない氷床の下部を推定するには?

しかし、実際に氷の下がどうなっているかは、掘ってみないとわかりません。南極の氷床は厚いところでは3000メートル以上あります。これまでもこのくらいの深さまで掘削してサンプルを取る実験はいくつか行われていますが多くはありません。

南極でもっとも深く掘削・サンプルを採取したもので約3000メートル、ロシアのボストークコアとよばれる氷床コアがあります。日本の観測隊も深さ約2800メートルまでを掘削して氷床コアを採取しています。

ただ、これらは何ヵ所かを掘っても、全体の観測データにはなりません。ですから、観測できないところのデータについては、これまでの研究で得られた知見を総合的に見て、「これぐらいの数値だろう」と決めるしかないんです。

そのため、検証用のデータも必要になります。計算に使う物理法則はある程度の幅を持っているので、どれが現実を表すかを評価して取捨選択しなければいけません。不確実な法則を、たとえば現在の流動速度をうまく表現できるように調整するのです。

あるいは、過去の氷床量に関するデータも使います。過去のデータから10万年単位の氷床量の変化を見積もって復元し、氷床計算がそれと整合しているかどうかを検証して、モデルの評価と調整を行うのです。

――観測で得られない部分は開発者の考え方によって違ってくるでしょうから、それによって、氷床モデルにもさまざまなパターンが出てくるのでしょうね。

いろんなパターンがありますね。それぞれの氷床モデルに、得意なところと、そうではないところがあります。また、「ここは説明できるけど、この現象はいまの知識では難しい」ということもいろいろありますね。

(撮影:神谷美寛/講談社写真部)

たとえば1万年前まであった北米の氷床は、8万年から10万年ほどかけて増えていき、あるところで一気に減りました。その変動を説明することはできるのですが、ほかの時代の変動や、もっと細かい周期の変動を説明するのはまだ難しい。

有限の計算機で、正確な予測を行うためには

――氷床モデルの開発にあたって、齋藤さんご自身はどんなことを重視していますか?

氷床モデルの開発には、それを「使う人」と「つくる人」があって、私は基本的に「つくる人」なんですね。

東京大学と共同で開発している、氷床流動モデル「IcIES」(アイシーズ)を「使う人」たちは、気候変化や温暖化など自分の課題の中で氷床を整合的に説明できる機能を持たせることを重視します。

でも「つくる人」である私のほうは、それについてはあまり考えていません。どう使われてもいいように、モデルとしての精度ではなく、プログラムとしての精度を上げることに注力しています。良い道具をつくることを考えているんです。

(撮影:神谷美寛/講談社写真部)

計算機のプログラムは、有限の情報しか扱えません。結果を出すためには、必ずどこかで計算を打ち切らないといけないんですね。すると、答えを求めたときにどうしても誤差が出てきます。

たとえば降雪量の誤差を1ミリメートルの誤差まで我慢するのか、1ミクロンの誤差まで抑えたいのか、それは「使う人」が求める性能に左右されます。

しかし私のほうは、どんな要求にも対応できるよう、できるだけ細かい計算ができるプログラムを提供したい。そのために、計算機で表現できるギリギリのところまで誤差を減らそうという観点で仕事をしています。

足し算の順番を変えただけで、計算結果が変わる!

――齋藤さんの正体が現れたような感じですが(笑)、「つくる人」という立場からすると、開発するモデルの対象は、氷床や気候ではなくてもかまわないということですか?

そうですね。もう30年ぐらい氷床モデルや気候モデルしかやっていないので、その分野の専門性もそれなりに身につきましたが、自分の本来の専門は「よろずモデル開発」だと思っています。

いろんな偶然が重なって氷床モデルの開発をしていますが、人生の成り行き次第では、いまごろまったく異なる分野、たとえば経済学のシミュレーションモデルをつくっていたかもしれません(笑)。

ですから、いま氷床モデルを開発するうえでいちばん考えているのは、とにかく物理方程式の数値をどこまでプログラミングできちんと表現できるかです。

たとえば、同じ方程式を使う計算でも、足し算の順番を変えるだけで結果は大きく違ったりするんですよ。

――足し算の順番、ですか? ふつうはどんな順番でも答えは同じですよね。

はい。でも、たとえば有効数字が2桁の計算機で簡単な足し算をする場合、10に0.10を10回足しても、答えは10ですよね。10+0.10=10.1ですが、有効数字は2桁なので、何回足しても0.1は切り捨てられて10になる。

でも、まず0.10を10回足してから10に足すと、1+10=11になるんです。

せっかくですから、2007年に書いた論文の動画を2つ、見ていただきましょう。氷床の変化を表す動画なのですが、左と右の計算では、計算中に何度も使う部分の式の足し算の順番を1ヵ所だけ変えました。それ以外は、初期値も数学的な意味で方程式もすべて同じです。

コンピュータは有効数字約16桁で計算していますが、足し算の順番を1ヵ所だけ変えたことで、瞬間的に計算結果の最後の数桁だけが異なりました。ほんのわずかな違いですから、シミュレーション結果に大した影響はないと思いますよね?

でも実際に動かしてみると、ご覧のとおり、その瞬間からまったく違う挙動になってしまうんです。

シミュレーションにおいて計算の中で何度も繰り返し使われている、あるひとつの足し算の順番を変えた結果

左と右のシミュレーションでは、計算の中で何度も繰り返し使われている、あるひとつの足し算の順番を変えている。最初、同じような挙動をしていた計算結果に、1分20秒のあたりから目に見える違いが表れ、最終的に大きくふるまいの異なる結果となった(動画作成・提供:齋藤冬樹/JAMSTEC)

――なるほど! これがカオス理論でいう「バタフライ効果」ですか?

そうですね。バタフライ効果は初期値のわずかな違いから大きな差が生じることと思われがちですが、途中でわずかな違いが起こっても、やはりそれが拡大されてまったく異なる結果になる可能性があるんです。

有限の世界で、地球という究極の複雑を計算する

数値モデルの開発者もタイプは千差万別で、こういうところまでは気にしない人もいます。「プログラミングの情報は有限なんだから、すべて表現できなくて当然だ。世界は複雑なのだから、そんな細かいところからは得られない答えをプログラミングで求めることを目指すべきだろう」というわけです。

反面、計算の順番を変えただけでまったく違う答えが出たりするのを許せない人もいます。

どちらの考え方にも意味はあるので、一方が正しいというつもりはありません。

でも、私は、焼き上がった茶碗にどんな小さなキズがあっても、その場で叩き割るタイプの職人なんですね(笑)。ふつうに使う分にはまったく問題のないレベルのキズでも、何かの拍子に手が引っかかって怪我をするとか、事故が起こる可能性もあるじゃないですか。

先ほどの動画のように、足し算の順番を1ヵ所変えただけで大きな違いが生まれるのは、きわめてレアなケースだと思います。でも、そういうことが起きる可能性がある以上、モデル職人としては、どんな小さなキズも見逃したくないんですよ。

撮影:神谷美寛/講談社写真部


齋藤さんの氷床研究についての記事はこちら

『グリーンランドや南極の氷は?氷床モデル研究者が解説する現在と未来 』

取材・文:岡田仁志 
撮影:神谷美寛/講談社写真部 
取材協力・図版提供:海洋研究開発機構 

  • トップ
  • JAMSTEC探訪
  • 有効数字2桁の計算機で10に0.1を10回足すには?究極の複雑系「地球」を表現する数値モデル開発者の工夫とは

こちらもおすすめ!>>