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北極冒険家が語る北極の探検史・観測史とその意義 ー 第1回「大航海時代」ー

2023310

 日本で唯一の北極冒険家 荻田 泰永氏は、これまでカナダ北極圏やグリーンランド、北極海を中心に主に単独徒歩による冒険を実施するといった世界有数のキャリアをお持ちであり、国内外のメディアから注目を集めています。
 また、それらの貴重な経験について、執筆や講演、イベント活動、さらには冒険をテーマとしたユニーク書店の運営などを通して、積極的に社会に発信・フィードバックされています。
 荻田氏には、北極域研究船の運用や利活用に向けた幅広い助言・意見交換を目的とする「北極域研究船推進委員会」にも外部有識者の委員として参画していただき、その豊富なご経験を活かしご尽力いただいております。

 今回荻田氏には3回にわたって、冒険家の視点から、北極を中心した極地探検と極地観測の歴史を大航海時代から振り返っていただき、その意義について語っていただきました。

北極冒険家 荻田 泰永 氏
神奈川県・愛川町生まれ
合同会社冒険研究所・代表社員
書籍:
「北極男」講談社(2013年11月)
「考える脚」KADOKAWA(2019年3月)
「PIHOTEK 北極を風と歩く」講談社(2022年8月)

プロフィール
poLar explorer yasu ogita

第1回「大航海時代」

北極冒険家 荻田 泰永

 これから3回にわたって、世界の極地探検と極地観測の歴史を語っていきます。まず初回は、極地探検の萌芽となった、大航海時代と北極探検の繋がりについてです。
 欧州の各国がアジアを目指した大航海時代。その大きな動機の一つは、経済活動でした。その200年前、マルコ・ポーロが囚われの獄中で口述により残したとされている「東方見聞録」の中で、黄金の国ジパングをはじめとした、アジアの豊かな経済資源について紹介されました。
 欧州では、利益をもたらしてくれる東方アジアへの思いが高まりますが、危険な陸路を通過するにはあまりにも困難。やがて造船技術の向上と共に、海路での遠方への移動が可能になり、大航海時代が幕を開けます。
 最初に世界の覇権を握ったのは、ポルトガルとスペインの二国です。両国で世界を二分するほどの力を持ち、欧州からアジアへの海域を支配していました。香辛料をはじめとした商品を欧州に持ち帰り、アジアとの貿易により大きな利益を上げます。しかし、その両国に追随する国もありました。それがオランダやイギリスです。追随する各国もアジアとの自由な貿易を望みましたが、南方の航路はポルトガルとスペインの両国に抑えられていました。そこで自由な航路の開拓を求め、目を向けたのが北方です。欧州から北に進み、現在のロシア北部の北極海を通過してアジアへ至る「北東航路」そして、北米大陸の北部を通過する「北西航路」この二つの航路開拓が始まりました。

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 1551年、イギリスで北方探検を財政的に支援する組織として「未知の地域、領土、島々、町村発見のための商業冒険家の組合会社」が設立されます。名前の通り、商業的な目的のために冒険家が先遣部隊となって、未知の地域を探索するための組織です。北東航路開拓を目指し、軍人のヒュー・ウィロビーが隊長となる探検隊が編成されました。副隊長には、イギリス随一の航海家として知られていたリチャード・チャンセラーが選ばれました。
 1553年、ウィロビー北極探検隊は3隻の船で北に向かいます。しかし、出港直後に嵐に遭遇し、ウィロビーとチャンセラーそれぞれが乗った船ははぐれてしまいました。ウィロビー隊長の率いる2隻の船は嵐による破損が激しく、スカンジナビア半島東部で投錨。やがて冬を迎え、壊血病や栄養失調により、2隻66名の乗員はその地で全員が死亡しました。北極探検史の中で、大きな犠牲を出した最初の隊でした。
 一方、優秀な航海家であったチャンセラーは嵐を切り抜け航海を続けます。現在のロシア、アルハンゲリスクに到着すると、チャンセラーはロシアの地方総督に会い、その勧めで当時のロシア皇帝イワン4世に謁見しました。そこで、ロシア国内での自由貿易の許可を得て、チャンセラーは1554年にイギリスへ帰国します。
 1610年。イギリス東インド会社はイングランドの優秀な航海家ヘンリー・ハドソンを雇い、北西航路の探検に向かいます。ハドソンはそれ以前、オランダ東インド会社に雇われて北米大陸を探検していました。現在のニューヨークがあるマンハッタン島を発見し、ハドソン川の名前の由来となります。
 北西航路開拓を目指したハドソンは、迷路のような北米大陸北部の島嶼部を縫うように進み、広大な外海に出ました。太平洋に出たと信じたハドソンですが、そこは北米大陸北東部に広がる、現在のハドソン湾でした。太平洋だと誤認したハドソンは、沿岸部を探査しているうちに秋が深まり、冬の訪れと共に海が凍結。その地で越冬を余儀なくされます。
 翌春になって海氷が溶け、帰路に着こうとしますが、そこで不満の高まった乗組員たちがハドソンに対して反乱を起こします。ハドソンは、自身の息子や忠実な部下と共に小さな小舟に乗せられ、その場に置き去りにされてしまいました。ヘンリー・ハドソンは、後の世に自らの名を与えられたハドソン湾に眠ることになります。
 極地探検が本格化したのは、大航海時代以降でした。大航海時代の探検の動機として「三つのG」という表現があります。Gold、Gospel、Gloryです。経済、宗教、名誉という三つの社会的な動機に後押しされ、探検家はその先遣隊として存在していました。
 初期の北極探検の動機として「科学」の探究という要素は、まだ弱いものでした。スペインやポルトガルの弱体化とともに、北方への航路開拓の必要性もなくなり、その意欲も失われていきます。
 その後、世界はオランダ、イギリス、フランスを中心として、植民地政策により自国の利益を最大化させていく時代となります。
 探検と科学が結びついていくのは、18世紀。博物学の発展と共に、かつての三つのGではない新しい動機による探検の時代が訪れます。
 科学的な動機による北極の探検が隆盛となるのは、19世紀のことです。その端緒となったのはイギリスでした。次回は、19世紀の北極探検と観測の歴史について語りたいと思います。

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