北極冒険家が語る北極の探検史・観測史とその意義 ー 第3回「20世紀」ー
2023年4月7日
日本で唯一の北極冒険家 荻田 泰永氏は、これまでカナダ北極圏やグリーンランド、北極海を中心に主に単独徒歩による冒険を実施するといった世界有数のキャリアをお持ちであり、国内外のメディアから注目を集めています。
また、それらの貴重な経験について、執筆や講演、イベント活動、さらには冒険をテーマとしたユニーク書店の運営などを通して、積極的に社会に発信・フィードバックされています。
荻田氏には、北極域研究船の運用や利活用に向けた幅広い助言・意見交換を目的とする「北極域研究船推進委員会」にも外部有識者の委員として参画していただき、その豊富なご経験を活かしご尽力いただいております。
今回荻田氏には3回にわたって、冒険家の視点から、北極を中心した極地探検と極地観測の歴史を大航海時代から振り返っていただき、その意義について語っていただきました。
北極冒険家 荻田 泰永 氏
神奈川県・愛川町生まれ
合同会社冒険研究所・代表社員
書籍:
「北極男」講談社(2013年11月)
「考える脚」KADOKAWA(2019年3月)
「PIHOTEK 北極を風と歩く」講談社(2022年8月)
プロフィール
poLar explorer yasu ogita
第3回「20世紀」
北極冒険家 荻田 泰永
北極探検と観測の歴史。第3回目は20世紀の北極観測です。
20世紀、探検だけでなく世界を劇的に変えた技術が登場します。それが航空機の開発でした。北極の観測と探検も、航空機の登場で飛躍的に発展しました。
1937年から38年にかけて、北極点に設置した漂流観測所「北極」を指揮したのが、ソビエト連邦の北極研究者イ・デ・パパーニンでした。この漂流観測所に人員と物資を送り届けたのが航空機です。20世紀初頭までの北極探検が、専ら船舶に依っていた時代から、航空機を積極的に利用する時代に移っていました。
19世紀末、ノルウェーのナンセンは探検船フラム号で北極海に乗り込み、海氷に捕らえられながら漂流し続けて、北極点を目指しました。しかし、その試みも北極点に到達することはできませんでした。その後、北極点は1909年にアメリカ人探検家、ロバート・ピアリーが犬ぞりを駆使して人類初到達を果たします(この到達の成否については賛否多い)。
北極海に面して広大な領土を持ちながら、海氷に阻まれ自由な航行を妨げられてきたソビエト(ロシア)にとって、北極海への進出は積年の思いがありました。航空機の登場によって、ソビエトがその先鞭を付けられる機会がやってきました。ソビエト科学アカデミーは航空機で北極点に人員と物資を送り、そこに人員を留まらせたまま観測を行う計画を立てます。数ヶ月に亘り、漂流する海氷上で生活しながらの科学観測という、ナンセンの漂流航海からも多大な影響を受けた、壮大な計画でした。
1937年5月21日、ロシアの極地パイロット、ヴォドピヤノフが操縦する先発機が北極点から20kmほど離れた海氷上に着陸。隊長のパパーニン以下、2名の科学者と1名の無線通信員の計4名が、氷上生活を送ることとなります。数日毎の差をおいて、さらに3機の航空機も飛来し、大量の生活用具や観測機器などを運んできました。当時の航空機は、現代のような人工衛星による機器もなく、位置を測定するにも羅針盤や天測などによりました。正確な地点を目指すことが困難なため、時間差をおいて出発した航空機4機が北極点で出会うことにも苦労します。
6月9日、4名が氷上生活をする準備を整え、4機の航空機は本国へと帰って行きました。ここからは、パパーニンたち漂流観測隊と本国は、無線による通信を行います。航空機が探検を劇的に変えたと述べましたが、19世紀までの探検との大きな差のもう一つが、通信機器の発達です。それまでの探検というのは、国を出てしまえば連絡をする手段はありませんでした。北極圏の探検でも捕鯨船が活動する海域の通行中であれば、通りかかった捕鯨船に伝言を頼むこともできましたが、ナンセンのように無人の海域に長期間入っていくには、文明世界に帰って来るまで探検隊の生死の行方さえ掴めません。20世紀に入り、探検にも無線通信が用いられるようになると、お互いに位置や安全を確認し合うことができるようになりました。また、航空機を利用することで、途中で物資を再補給することや、人員の交代なども可能になります。航空機と無線通信という二つの技術が、20世紀の探検を変えました。
北極点に降り立ったパパーニン隊は、主要な荷を三箇所に分けて保管しました。これは、足元の海氷が割れたり、お互いに押し合った時に、氷上の荷物が水没したり破壊されても残りの物資で生活できるようにするためです。北極での経験が豊富なパパーニンには、万全の備えがいくつもありました。
生活の準備が整うと、早速観測に入ります。彼らが行った科学観測は、地磁気、海氷、水深、海洋生物、気象など多岐に亘りました。
パパーニン隊が乗った氷盤は、北極点から日々南下し、グリーンランド東岸に流れて行きました。これは、かつてナンセンが北極海漂流航海を思いついたきっかけとなる、海流の動きそのものでした。パパーニンは、約40年後にナンセンの仮説を改めて証明して見せたのです。
水深の観測で、パパーニン隊は4000m以上の深さが北極海にあることを確認します。しかし、彼らが乗っている氷盤の厚さは3mほど。北極海全体のスケールから言えば薄膜のような海氷は、南下を続けていくうちに次第に割れ、一様に張っていた丈夫な氷盤は数百メートルほどの広さの氷盤に姿を変えます。温かい海域に近付くに連れて氷盤は小さくなり、また、南下の速度も増していきました。
1938年2月19日。パパーニン隊の乗った氷盤がグリーンランド東岸の北緯70度54分の位置まで流されてきたところで、ロシア本国からの輸送船によって4名は引き揚げられました。274日間、2500km以上を漂流し、北極海に関する科学的なデータを数多く採取することに成功しました。
21世紀になった現代においても、北極海で科学的なデータを採取する科学者が数多く存在します。地球温暖化が顕著になりつつある現在、地球環境の変化がいち早く顕れる極地を研究することは、以前にも増して必要になってきていると言えるでしょう。しかし、その研究も一朝一夕には実現しません。パパーニン、ナンセン、数多くの人々の挑戦と試行錯誤、人類の営為の果てに、現在の研究が存在します。
あえて危険に身を晒し、好奇心や科学的な課題に対して身体で向き合うのは、地球上に存在する生物で、私たち人類ただ一種類です。なぜ人類は挑戦するのか?なぜ探検に出るのか?なぜ科学を求めるのか?それは、人類とは連綿とした繋がりの中で先人からの知恵を受け継ぎ、挑戦する姿勢を忘れず、現代の発展を遂げてきた生き物だからです。人はなぜ探検するのか?それは「人間だから」に他なりません。