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北極冒険家が語る北極の探検史・観測史とその意義 ー 第2回「19世紀」ー

2023324

 日本で唯一の北極冒険家 荻田 泰永氏は、これまでカナダ北極圏やグリーンランド、北極海を中心に主に単独徒歩による冒険を実施するといった世界有数のキャリアをお持ちであり、国内外のメディアから注目を集めています。
 また、それらの貴重な経験について、執筆や講演、イベント活動、さらには冒険をテーマとしたユニーク書店の運営などを通して、積極的に社会に発信・フィードバックされています。
 荻田氏には、北極域研究船の運用や利活用に向けた幅広い助言・意見交換を目的とする「北極域研究船推進委員会」にも外部有識者の委員として参画していただき、その豊富なご経験を活かしご尽力いただいております。

 今回荻田氏には3回にわたって、冒険家の視点から、北極を中心した極地探検と極地観測の歴史を大航海時代から振り返っていただき、その意義について語っていただきました。

北極冒険家 荻田 泰永 氏
神奈川県・愛川町生まれ
合同会社冒険研究所・代表社員
書籍:
「北極男」講談社(2013年11月)
「考える脚」KADOKAWA(2019年3月)
「PIHOTEK 北極を風と歩く」講談社(2022年8月)

プロフィール
poLar explorer yasu ogita

第2回「19世紀」

北極冒険家 荻田 泰永

 北極探検と観測の歴史。第2回目は19世紀を取り上げます。
 大航海時代の後、ポルトガルとスペインの弱体化によって北極への航路開拓の動機を失った欧州では、北極探検は忘れられた存在でした。その機運が再び盛り上がる契機となるのは、1815年のナポレオン戦争の終結です。
 フランスのナポレオンに対抗する為、海軍力を増大し続けたイギリスでは、ナポレオンを打倒した後にある悩みを抱えます。それは、強大な敵を失った海軍力の使い道です。末端の兵卒は人員整理されたものの、簡単には解雇できない将校ばかりが溢れる、不均衡な海軍になっていました。将校たちは出世の道もなく、新たな機会創出の場を求めていました。その中から長らく忘れられていた北極探検に目を向ける者たちが現れました。
 18世紀、博物学の発展と共に探検は科学と結びつきます。植物、地質、気象、民族など科学的な未知に対するアプローチとして、探検家が世界各地に赴く時代を迎えていました。
 未だ地図もなく、未知に溢れていた北極の姿を明らかにするため、イギリス海軍副大臣、ジョン・バロウが主導してカナダ北部の探検が始まります。イギリス政府の経度委員会も北極探検を支援し、北極圏をどれだけ深く探査したかで褒賞金も設定しました。
 こうして19世紀前半より、イギリスを中心として科学的志向による北極探検が始まります。その中では、北西航路の開通を目指したイギリスのフランクリン隊、129名全滅という極地探検史上最大の悲劇もありました。
 現代の北極観測にも多大な影響を与える探検が、19世紀末に行われます。
 ノルウェーの探検家フリチョフ・ナンセンが隊長となった、極地探検船フラム号の北極海漂流航海です。これは、海氷の圧力に耐えるために船底を極端に丸く、卵型に設計されたフラム号で凍りつく北極海に乗り込み、海氷に閉じ込められながら北極海を漂流し、北極点に迫ろうという野心的な試みでした。
 ナンセンが海氷に閉じ込められながら北極点を目指すアイデアに着目したその契機は、一隻の探検船の沈没でした。1881年にアメリカの探検船ジャネット号が、シベリア沖の北極海で沈没します。その3年後、北極海を挟んだ遥か遠くグリーンランドの海岸線で、ジャネット号の残骸が発見されました。この事実を知ったナンセンは、北極海を横断するように海流が流れているはずだと推測します。夏の間に船で北極海に乗り入れ、冬を迎えて海氷に閉じ込められながら、その海流に乗っていけば人類未踏の北極点に到達できるはずだ、そう考えました。

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 ナンセンは、海氷の圧力でも船が破壊されないよう、新たに極地探検船フラム号を造船します。1893年7月、ナンセン以下13名を乗せたフラム号は、5年間は隊員が生存できる物資を積み込み、ノルウェー北部からシベリア北岸を東に、北極海へと入っていきます。ジャネット号の沈没海域に接近したところで9月を迎え、やがて急激な寒さと共に北極海は海氷に覆われていきました。フラム号は海氷に身動きを奪われ、北極海漂流航海が始まります。
 当時の探検船は、言うまでもなく木造船です。ジャネット号をはじめ、それまで多くの探検船が海氷の圧力に船を破壊されてきました。しかし、ナンセンの乗るフラム号は、船の両側からの圧力を受けて、船自体が上側に力を逃すように設計されています。ナンセンは、日記の中で書いています。
 「一〇月二十五日。夜中にすごい圧力がきた。目を覚ましたらフラム号は持ち上げられ、震え、揺れた。船側にあたって氷の割れる大きな音が聞こえた」
 海氷に捕らえられながら、太陽の昇らない冬の極夜を超え、翌年を迎え、二度目の冬が過ぎました。1895年の春にフラム号の位置を計測すると、このままだと北極点を通過しないであろうことが予測されました。そこでナンセンは、隊員のヨハンセンを連れて、フラム号から下船。二人で木造の小型ソリを引いて、徒歩で北極点を目指すことにします。
 通信機器も存在しない時代です。漂流するフラム号から下船して徒歩で北極点を目指すということは、二人がフラム号を再発見して船に戻ることは不可能だと分かっていました。ナンセンとヨハンセンは、命懸けの氷上行進に向かいました。二人は必死で北上を試みますが、北極点には到達できませんでした。しかし、当時の人類最北到達記録となる、北緯86度13分に達します。その地点から二人は南下。未知の海域を進み、現在のフランツヨシフ諸島に辿り着きます。何もない厳寒の無人島で二人は越冬し、翌春にイギリスの探検隊と偶然遭遇、彼らの船で無事に帰国を果たしました。
 一方のフラム号は、ナンセン下船後も海氷の流れに従って漂流します。ナンセンと別れた翌年の夏、スヴァールバル諸島の北側まで流されたところで海氷から解放され、ノルウェー本国への帰路につきました。ちょうど、ナンセンがイギリスの探検隊と出会った時期と同じ頃、フラム号もまた自由の身となりました。こうして3年間の北極海漂流航海は、一人の犠牲者も出さず、全員無事に帰国を果たしました。
 フラム号の壮大な実験的航海は、北極海の水深や海流など、多くの科学的な知見を集めることに成功しました。人間が身体性を持って科学的な未知に挑んでいく、探検と科学が高度な次元で融合した姿に感動を覚えます。時代がいくら変わろうとも、人間が持つ本来的な好奇心や未知への情熱に変わりはありません。現代では科学と探検が、分離された別の営みのように考えられがちです。しかし、未だ科学の力が及ばない射程の外にまで人間の好奇心が及んだ時、あえて困難を受け入れながら、身体性を持って課題に挑む人間が新しい時代を切り開く存在となるはずです。人類とは、アフリカを起源としてそのように発展を続けてきたのですから。

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